『ラジオの歴史』こぼればなし  投稿者高橋雄造

 先ごろ,小著『ラジオの歴史――工作の〈文化〉と電子工業のあゆみ』,法政大学出版局,
2011年 の富士製作所/スター関係取材などについて投稿いたしました.同書刊行後,
”『ラジオの歴史』余話“といったものをラジオ雑誌に書く機会があるかと思ったのですが,
全く声がかかりませんでした.
ラジオ工房掲示板には少々なじまないかもしれませんが,以下のような”こぼれ話”を書いてみます.
ほとんど記憶だけで綴りますし,不正確な点もあるかと思います.
小生の誤解(インタビューで聞いたホラ話を真に受けるとか)もあるでしょう.
ラジオ工房掲示板は商業出版物ではないので自由に書けると思いますが,
失礼にあたる表現も不用意に出るかもしれません.このあたり,なにとぞご容赦・御寛恕をお願いします.

 まず,赤箱のスターと緑のトリオの続きです.ラジオ工業最初期からのスターとちがい,
トリオは戦後派です.
トリオの春日二郎さんは長野県駒ヶ根の出身です.軍で無線技術を習得されたようです.
伊那谷の山間の駒ケ根では電波事情が悪いのでラジオコイルの改良に努めた,
とおっしゃっていました.
巡回技術指導に長野県に来たNHKの人が春日さん自作のQメーターを見て,
びっくり感心したそうです.
春日さんの技術力です.一面で春日さん(”二郎さん”と呼ばれていたようです)は文人で,歌人であり,
カメラの趣味人でした(ラジオ界で多趣味――クルマ,自家用機操縦などなど――というと田口達也さんほかもいました).
 話が会社の技術陣に及んだとき,春日さんは,しっかりした技術者が社に一人いれば他は並の技術者でよいのだ,
とおっしゃいました.トリオでは俺がそれだと言う意味になるわけで,傲岸な発言にも聞こえます.
しかし,ラジオ雑誌上の氏の発言を読むと,すべて技術の確かな根拠に基づいていることが感じられます.
やはり春日さんは抜群の存在でした.

東京・大田区の春日無線工業の部屋はハンダ鏝の匂いと技術者たちの熱気でいっぱいだった――
これは春日さん逝去後の春日令嬢による回想です.春日さんのリーダーシップです.
春日さんは日本オーディオ協会の幹部であり,トリオ社は“トライアンプ”を発売しました.
小生はこのアンプの修理をしたことがあります.よく合理的に(節約して)作るものだ,
さすが儲かる会社は,と感心!しました.春日さんは自社の製品すべてに満足していたかどうか? のちに氏がトリオ/
ケンウッド社を出てアキュフェーズ(日本一高品質のオーディオ・メーカー)を始めたのにも,
こんなことが関係したかもしれません.
春日さん退社のいきさつ:春日無線工業は二郎さんと実兄・義兄の3人で始めたので,トリオと称しました.
のち,東京に進出しました.米国にも拠点を持ち,Kenwoodとして,二郎さんが米国に駐在しました.
3人のなかで経営方針の意見が合わず,二郎さんが独立してアキュフェーズを設立,
ケンウッドの技術陣何人もがついて行ったそうです.以上,不正確な点があるかもしれません.
トリオ関係の方が正して下されば幸いです. ところで,スターとトリオの人気投票をしたら,どんな結果
になるでしょうか.小生は,最初に買ったコイル(並四)以来ずっと,コイル類はほとんどスターでした.
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管理人の注)
田口 達也さん キャノンの元技術者で 管理人と毎週のように骨董市に出かけていました。
ビンテージ バルブ等の著者でも有ります、比較的若く亡くなられました(多分70歳代 後半?) 葬儀にも行きました。

『ラジオの歴史』こぼればなしA  投稿者高橋雄造

 富士製作所/スターでは,富田潤二さんがながらく技師長格であったと思われます.
富田氏は,大井脩三の”ラジオ技術講習所”(東京・神田三崎町)で学びました.
技術といい教養といい,富田さんを春日さんと比較するのは酷でしょう.
その技術陣を使って成功したところに佐藤俊氏の腕がある,とも言えるでしょう.
 スターの中間周波トランスはC同調,トリオの方はμ同調でした.
このあたりにも,両社の技術力・先見性のちがいが見て取れます。
 田山彰さんが短期間ながらスターの技術部長でした(1960年入社).
氏はワンマン社長佐藤俊の部下ですから,春日二郎さんのように自由に腕を振るうことはできなかったでしょう.
佐藤さんは技術の詳しいことはオーディオ関係の友人に電話をかけて相談していた,とのことです.
 田山さんについて追加:氏には,”回想 日本のラジオ・セット(I)(II)(III)”と題して,
山中無線電機時代ほか詳しく書いていただきました(『電気学会研究会資料』,HEE-00-15, HEE-01-12, HEE-01-24,2000年,2001年).
どれも大変参考になる資料と思いますが,電気学会自体に保存されているかどうか?
その(I)では戦前の各種ラジオ部品についての記述があります.
田山さんは中央無線で,軍放出のリッツ線を使って中間周波トランスを作り,性能を向上させました.
 戦後の富士製作所の躍進はまことにサクセス・ストーリーで,佐藤俊氏のリーダーシップの賜物であったと言えるでしょう.
1961年に東京証券取引所第二部が開設され,富士製作所もこれに上場を果たし,社名をスターに改めました.
オーディオに乗り出そうと池田圭や永田秀一と関係を持ったようすが,『ラジオの歴史』,100-101頁の図55(写真)に見られます.
佐藤俊の絶頂期です.”第二のソニー”とも呼ばれたました.
 佐藤俊さんについて,もう少し.戦後,東京にラジオ関係メーカーの共同組合が設立され,
佐藤氏が組合長を務めていました.熱海で組合の納会か新年会があり,
宴席で佐藤氏がスピーチしている時に小林稔さん(ペーパーコンデンサー等のメーカー小林電機製作所/チェリーの社長)らが別室で麻雀を始めたのだそうです.
そこへ佐藤氏が乗り込んで,“オレの話が聞けないのか”と怒って雀卓をひっくり返した.
これを根に持った小林氏がのちに組合長になり,そのときスターが左前になり,
組合からつなぎの融資があれば生き延びるというところを小林氏が許さず,スターが倒産した,という話です.
以上のように聞いた記憶ですが,あるいは佐藤氏と小林氏と立場が逆であったかもしれません.
両氏とも,日本生産性本部派遣・米国招待で日本電子工業訪米視察団(1957年.団長はパイオニア松本望社長)のメンバーでしたから,
業界で”顔”でした.
 テレビキットへの課税問題で電気商が窮地におちいり,青森あたりから上京した店主たちがスター社へ詰めかけたとき,
佐藤俊氏は一室へ隠れて出てこなかったと言います.飛ぶ鳥を落とす勢いであった氏も小心者であったというエピソードですが,
こんなことは普通で自然だと小生は思います.
 
トリオとテレビキット:春日無線もテレビキット製造に乗り出し,宣伝まで開始しましたが,発売寸前に撤退しました.
テレビキットの流行に乗ろうとしたのを断念したのは,英断であったと言えるでしょう.
 ラジオ受信機の高周波部品規格統一(コイル,バリコン,ダイヤルなど.1952年)に際して,部品メーカーのグループが作った規格が原型になりました.
富士製作所のスターライン,吉永電機(バリコンのメーカー)・トリオほかのCLD協会,関西のCVD協会(福島電機/コスモスほか)といったグループです.
これもスターとトリオの重要な功績です.
 
『ラジオの歴史』刊行について:はじめ,老舗ラジオ雑誌の編集長に貴社から出版してもらえないかと頼んだのですが,
”高橋さんの書くものはちっともおもしろくないから”と断られました.
のち友人の紹介で法政大学出版局から刊行することができ,大変ラッキーであったと思います.

 なるべく正確に,と書いているうちについつい長くなりました.お詫びします.

『ラジオの歴史』こぼればなしB  投稿者高橋雄造

 富士製作所/スター関係の続きです.” ラジオの歴史”と言うからには,
富士製作所,春日無線/トリオ,浜地常康,苫米地貢・伊藤賢治・『無線と実験』あたりはメイン・トピックスで.力を入れて調べました.
はじめは小生も,”富士製作所は富士電機・富士通と関係があるのかしらん”といった程度の認識でした.
創業者佐藤祐次郎(佐藤俊の父君)が静岡県興津出身であるので”富士商店” とし,
これが富士製作所になったのであり,富士電機・富士通とは無関係です.
戦後にスター測器(”スタァ”)というのがありましたが,京都の会社であったか,これも別物でしょう.
 佐藤祐次郎は,浜地常康の東京発明研究所の設立に関与しました.
さらに,苫米地貢(伊藤賢治,古沢匡一郎とともに『無線と実験』の創始者)の衆立無線研究所の試作課長になりました.
苫米地が東京中央放送局入りしたのち,衆立無線研究所は佐藤が引き継ぎました(富士商店に吸収された).
このように,佐藤は早くから斯界の主流にいたわけです.
 富士商店の所在地は,
  東京市芝区田村町四番地(JOAK通り) 電話 芝(43)2260 振替 東京19401でした.
衆立無線研究所の所在地(1928年)は,
  東京市芝区田村町三 電話 芝一三四〇番
とあります(『ラジオの歴史』78頁,図17).
 富士商店のブランド名は” SRL”でした.Short Wave Radio Laboratoryの
略でしょうか.部品等のほか,測定器が富士商店の主力製品でした.軍用製造の関係から,
東京・深川の米問屋木村徳兵衛と協力して,富士測定器(のちスイッチ等のフジソク社になった)を設立しました.
海軍技術研究所・電気試験所の幹部である高原大佐や木村六郎(木村徳兵衛の叔父)がこれに関与したなど,時流に乗っていたさまがあります.
 米国の対日輸出禁止措置をかいくぐって,信号発生器(シグナル・ジェネレーター)を急ぎ米国から運び,深川あたりに陸揚げした,これをやったの
が軍と関係のある木村であったとか,聞いた記憶があります.佐藤も関係していたことでしょう.
 佐藤祐次郎氏がどんな人であったか,わずかしか調べられなかったのが残念です.氏は相当なやり手であったと思われますが,2代目の俊氏は甘い(守
りに弱い)ところがあったようです.”乳母日傘で育ったから”という評も聞きました.
 佐藤一族と富士製作所は日本のラジオ史上で非常に重要な存在です.くわしくは下記拙稿を見て下さい.
研究論文ですから読みやすくないかもしれませんが,興味を持っていただければ幸いです.
戦後の日本のラジオ・テレビ・オーディオ工作の文化は,百花繚乱でした.拙稿はその一部分を書き留めたにすぎません.
こういった記憶もやがて消えていくのでしょう.
- ”電子工業史における中小企業の足跡――(I)富士製作所(STAR)とラジ オ工業”,『科学技術史』(日本科学技術史学会),1号,1997年,45-80頁.
- ”電子工業史における中小企業の足跡――(II)富士製作所(STAR)とテレ ビ工業”,同,2号,1998年,53-83頁.

『ラジオの歴史』こぼればなしC追加(訂正)  投稿者高橋雄造

 本文冒頭の”下記拙稿”は,次の通りです.お詫びして追加します.
 - ”浜地常康の『ラヂオ』から『無線と実験』へ”,『科学技術史』(日本科
  学技術史学会),11号,2010年,1-36頁.
2023/12/01 (Fri) 19:36:23_11879421

『ラジオの歴史』こぼればなしC  投稿者高橋雄造

*スイープ・ジェネレーターのリーダー(大松電気)の大松さんにも,インタビューしました.
研究測定用の高級品でなく工場で使えるような測定器を作っている,ということでした.
小生も,同社のオシロスコープとテストオシレーターを持っていました.
大松さんは,会社が左前のとき質屋に行ったことを話して下さいました.
質屋には行ったことがなかったので,ずいぶんためらった(質屋の暖簾をなかなかくぐれなかった)とか.
 浜地常康,苫米地貢,伊藤賢治といったところは,ラジオ初期(”ラヂオ”といった)の大立物です.
下記拙稿と,『無線と実験』(2001年5月号,6月号,”ラジオ雑誌の時代”)に書きました.
前掲拙稿”電子工業史における中小企業の足跡――(I)富士製作所(STAR)とラジオ工業”にもあります.
 苫米地は功労者ですが,”山師のような”と言われたりして,ことさら低く評価されたようです.
彼は”衆立無線研究所”を設立し,一統を引き連れ機材を担いで全国を行脚し,
ラヂオ(無線電話)普及の啓蒙デモ講演をしました.
伊勢神宮の御師のような活動でしょうか.起業家精神では伊藤の方がスケールが大きく,
米国シカゴで知識を仕入れた甥(弟?)の茨木悟を呼び戻して,
受信機・部品や雑誌だけでなく放送局までつくろうと計画しました.これも一種の山師ですかネ.
 苫米地貢は,浜地の東京発明研究所と『ラヂオ』にも協力しました.東京発明研究所には,
古沢匡一郎や佐藤祐次郎を連れて参加したようです.

苫米地は,衆立無線研究所というネーミングから見ても壮士風で,算盤がはじける商売人ではなかったようです.
『無線と実験』という誌名に”ラヂオ”でなく”無線”を使ったのは,苫米地の主張によるものであったと伝えられます.
ラジオは無線電話(不特定聴取者向けのパブリック・アドレスでなく,
特定スポット・スポット間の通信)から分立したものであり,苫米地はその伝統に固執したわけです.
 『無線と実験』創立グループの一人で赤門ラヂオ商会を興した伊藤は,
日本のラジオ史上の功労者です.その伊藤が同誌をあっさりと小川菊松(誠文堂)に渡してしまい,
商売は小川の方がずっとうわ手でした.小川は,『無線と実験』を商業誌として成功させました.伊藤はX線・電気治療畑の人で,
雑誌よりも電気治療器の方に関心が向いていたのでしょう.同誌では,
古沢匡一郎編集長(苫米地の衆立無線研究所の副大将格であった)の貢献が大きかった.
小川が古沢をうまく使った,ということでしょう.
 伊藤氏は起業家としては大会社を作ることにはならず,電気治療器の会社を業としました.
これに成功した伊藤賢治氏は電気治療に宗教色を加味して,
”自分の御真影(写真)を信者に拝ませている”と独白しました(『無線と実験』誌上であったか).
小生が会ったのは令孫で,東京・練馬区で伊藤超短波という電気治療器店をやっておられました.
この伊藤さんには.大物風・カリスマといったことは感じられませんでした.

 茨木さんの三田無線(DELICA)について.小生は,ラジオ雑誌や『CQ』掲載のDELICA測定器の広告を見て,
そのラインアップの豊富なことに驚きました.パノラミック・アダプターまであるのです.
金欠の少年には,もちろんどれも高嶺の花でした.後年,DELICAのディップメーター(トランジスター化されたもの)を買いました.
ところが,ダイヤルをただ回すだけでメーター表示が上下する(発振強度が均一でない)のです.
春日二郎さんにこの話をしたら,コイルのボビンが細くQが低いので自己共振があるのか,
とおっしゃいました.6AK5三結発振の自作品の方がずっと良かった(144MHz送信機の調整にも使った.
6AK5は電極が小さいので,三結で超再生受信機にも好適です.6AF4Aあたりも良いか).

 ついでに超再生受信機について.プロレタリア・ラジオ少年の小生は,
50MHz受信機もFM放送受信機も超再生でした.3A5のトランシーバーも作りました.
超再生受信機(ウルトラオージオン回路)では細部の接続にいろいろなバリアントがあります.
試行錯誤した結果,次のようにするのが良いとわかりました.
コイルのタップは中点,グリッド・コンデンサーはセラミックの50pF(50MHzの場合),
グリッドリーク抵抗は5MΩで,その他端は真空管のプレートに接続する.
チョークコイルは,断線したガラス管フューズにエナメル線を巻いて,
共振をグリッドディップメーターで受信帯域(たとえば50MHz)に合わせる.
低周波トランスのかわりにスピ−カー用の出力トランス(二次巻線は開放,コンデンサー・カプリングでオーディオを取
り出す)でよい.
 その後,小遣いを貯めてFMチューナーを作りました.フロントエンドとAFCは12AT7を2本です.
組み上げて電源スイッチをいれたら,いきなり美しい音楽が流れました.
たまたまバリコンの位置が送信周波数に合っていたのです.
あんなにうれしかったことはない.大学入試に失敗して浪人中のことでした.

一橋大学の商品陳列室,オーディオ用真空管・機器  投稿者高橋雄造

 一橋大学の”商品陳列室”にオーディオ用真空管・機器がある/あったようです.
  岩城良次郎” 商品のライフサイクル――オーディオ用真空管の技術史を事例として”
という論文が,
  https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/9450/HNshizen0001800010.pdf
にあります.普段は非公開だったようですが,頼めば見せてもらえる,ただし今はどうなっているか? 新しい情報ではありませんが,あまり知られていないようなので,以上を書き込みます.


『ラジオの歴史』こぼればなしD  投稿者高橋雄造

 今回は浜地常康です.
彼の『ラヂオ』は日本で最初のラジオ雑誌であり,ハマチヴァルヴは最初の国産真空管といってもよいような存在です.
電波知識の啓蒙雑誌ではなく,ラジオ自作ファンのための雑誌を始めたのは浜地です.
 過去の歴史を調べるについては,すでに知っている知識の断片から入ることになります.
このような知識のない事項についての研究は粗くなりがちであり,心して取り組まなければなりません.
ラジオ・雑誌で言えば,『無線と実験』は現存しているので,そこからたどって行けばよい.
伊藤賢治の名前と赤門ラヂオぐらいは聞いたことがある.
苫米地貢となると,相当に困難です.浜地はもう,かすかに聞いたか聞かなかった存在でした.
 浜地家は,福岡・黒田藩の杖術指南役でした.常康の父君・八郎は黒田家の顧問弁護士で,
常康の弟が杖術を嗣ぎました.大船の浜地家を訪ねた小生は,
その神道夢想流杖術師範の浜地金剛という方にも会いました.杖術とは刺股を使うアレです.
捕物術ですから,剣術よりも低く見られることがあったかもしれない――しかし,
師範氏によると”剣術は人殺し,杖術は人を生かす術”(殺さずに捕える)です.
浜地八郎は玄洋社の社員で,娘二人は頭山満の長男・次男の嫁です.
そう語る師範さん自身も玄洋社社員であるような口ぶりでした.
小生は学生運動世代で,“玄洋社とはイケナイ右翼団体だ”と思っていましたので,
少々驚きました.玄洋社は米占領軍に禁止されてなくなったはずですが,
任意団体として続いていたのかもしれません.大船の観音は,
浜地八郎らが主唱して護国観音として築造開始されたものだそうです.
“カルピス”(飲料)の名称は浜地常康のアイデアである――どれも浜地家で聞いた話です.
彼は,獨協中学で学び,ラジオの知識は独学で得たそうです.
張作霖の求めで,浜地製の無線電話機を奉天と北京に取り付けました.
常康は,音楽も得意でした.電子楽器も製作しました.彼はバラライカを弾いたとか.
日本で最初のバラライカ奏者かもしれません.
正統右翼の息子さんがルパーシカを着てバラライカを弾いて悪いわけではありませんが(両方ともロシアのもの),
なんだか不思議な気がしました.
 関東大震災前年の1922年に『ラヂオ』を創刊し(11月号で創刊.日本におけるラジオ放送開始の3年前!『無線と実験』創刊は1924年),
蛙のマークのハマチヴァルヴを作った浜地は,日本のラジオ産業の創始者といってよい.
しかし,その功績は意図的に消し去られたような気配があります.『無線と実験』グループあたりによるものか?
しかし浜地家では,常康が不運で挫折したなどとは思っておらず,才能があり好きなことをやったが若死にした可愛い息子,
ということのようです.暗さ,悔恨など感じられない.
 浜地常康はリッチな家に生まれ,後援者には逓信大臣もいました.望むことをやった,望むことを実行でき,幸せでした.
苫米地,伊藤,小川らはそれぞれこんな恵まれた境遇にあったでしょうか.おそらくノーです.
違いはもともとこのあたりにあった,と小生は思います.
” 浜地はラジオがビジネスとして十分に成立する前の人に過ぎない”と言ってしまえばそれも当たっているでしょう.しかし,
先鞭をつけたのは浜地常康です.

 関東大震災(1923年9月)をはさんでの『ラヂオ』と『無線と実験』の発刊の流れは,
次のようであったと思われます.まず,震災前に浜地が『ラヂオ』を創刊し,11号まで刊行しました.
苫米地は(古沢や佐藤祐次郎も),『ラヂオ』および東京発明研究所に参加しました.
震災で同誌刊行が中断し,その復刊に先手を打って『無線と実験』が発刊されました
(創刊号は1924年5月.東京放送局の放送開始は1925年3月).
『ラヂオ』を見て伊藤がラジオ雑誌は”イケる”と読み,『無線と実験』を出したのでしょう.その結果,
『ラヂオ』は復刊されなかった.苫米地一統は,『ラヂオ』から『無線と実験』へ引っ越した.
そして,『無線と実験』グループは浜地に対する”背信”の痕跡を消そうとしたようです.
苫米地が浜地と訣別した本当の理由はわかりません(全くの想像ですが,浜地が大病で伏していたとか).
浜地家としては『無線と実験』グループとの泥試合をする気はなかった(プライドが許さなかったか)のでしょう.
伊藤は『無線と実験』を刊行したものの,その販売は手に余り,商業雑誌を業とする小川が同誌をいただいた,ということでしょう.
小川は商売人で,早くから(『ラヂオ』の頃からか)ラジオ雑誌刊行をねらっていたようです.
『無線と実験』は古沢の編集で誌面が充実し,商業雑誌としても成功しました.
古沢がラジオ自作ファン向けの誌面を作るにあたって,『ラヂオ』の経験が非常に役立ったにちがいありません.(創刊号に”読者か
らの手紙”とか”読者との質疑応答” を創刊号に書く,といった勇み足もありました:
古沢本人の回想による.ただし,これは”確信犯”で,読者へのメッセージであったのでしょう.)
 微細な点は,前記拙稿”浜地常康の『ラヂオ』から『無線と実験』へ――日本最初のラジオ雑誌” ,
『科学技術史』(日本科学技術史学会),11号,2010年,1-36頁.

# JA8IRQさん・皆さんに関心を持っていただき,ありがとうございます.
毎度長々と,ご迷惑かとも思いますが,続きを書いています.既書き込み細
部に補正もあり,”まとめて保存”はまだ待ってください.



管理人の注
浜地さんに関する 高橋先生の投稿(科学技術史 2010年7月号)は下記にあります。
http://radiokobo.web.fc2.com/siryou/syoseki/kagakugijutsushi-11.html


『ラジオの歴史』こぼればなしE  投稿者高橋雄造


 ”ラジオの歴史”を調べる前に,日本の電子部品工業史の研究・聞き取り調査をしました.
大学工学部の研究者が工業史を調べるので,大きな困難なく電子部品メーカーとコンタクトできました.
ラジオ関係はそうはいきません.
そこで相談相手・指南役になって下さったのが,老川正次郎さん(キャビネット・メーカーである老川工芸所/ベニスの社長)でした.
”それは〇〇に聞け,こういうことは??さんに頼めばよい”というアドバイスです.
どのようにして老川さんにたどり着いたか,電子部品(バリコン,スイッチ,可変抵抗器,テレビチューナー等)のアルプス片岡勝太郎さんからの紹介であったかと思います.
 片岡さんと老川さんは,ウマが合ったのでしょう,硬軟の良いコンビで業界のリーダー・世話役でした.
小生は” 片岡勝太郎”と” 老川正次郎”というのぼりを立てたら,芝居小屋みたいだな,などと思いました.
 ラジオ少年であった頃,ベニスの瀟洒なキャビネットとダイヤルにはあこがれました.
もとより,手の届く存在ではありませんでした.
 老川さんは,若いころに伊藤賢治の赤門ラヂオ(本郷の東大赤門前にビルが後年まで残っていました)にいたと言いますから,日本のラジオ工業界の初期にくわしいわけです.
箱・ダイヤルから部品まで,外見がすべてアチャラものとそっくりでないと全く売れない,そっくりだとよく売れる,”上等舶来” 時代であった.
各社のブランド名もカタカナ英語(しばしば怪しげな)で,これが戦後まで続きました.
 戦前・戦後を通じてラジオ界の事情に詳しく,しかもそれをよくわかるように話して下さるのは,氏が箱屋・家具屋であったことと関係しているでしょう.
ラジオ関係の製品は”金物”である(製造工程は鈑金である)のに,箱は木工です.
それゆえ,ラジオ・部品製造会社間の競合に巻き込まれることなく,たいていの会社と友好関係を持てます.
言わば”中立”です.
ライバル会社の社長が同業組合の長になるとまずい(前述スターとチェリーの例もある),というのとはちがいます.
老川さんは業界の保険組合や年金関係の世話役をやっていて,顔が広い.
日本電子工業訪米視察団(1958年.無線関係は8人)にも,老川さんが参加していました.
老川さんは,業界に欠かせない人でした.
 ポータブルラジオの白砂電機/シルバーを調べたいと思い,老川さんに頼んだのですが,なかなか連絡先がわからない.
最後には保険関係の名簿から名古屋の白砂允さんを見つけて下さいました.
 ”なぜそんなに他社の人の面倒を見るのですか”と質問(野暮な)をしたところ,次のような答えをいただきました.
老川さんは東京・日本橋の生れ,ラジオの工場・店を始める人の多くは地方出で,青雲の志を抱いて徒手空拳に近い状態で上京するのだから,これを助けるのが東京の人間のつとめだというのです.
この業界には偉い人がいるものだ,と感じました.
 なお,地方出身の創業者何人かに,後ほど触れる予定です.
新潟県からの佐藤敏雄(日本ケミコン),山梨県からの広瀬太吉(広瀬無線電機)・角田照永(角田無線電機)兄弟など.
 中野の神田川沿いの老川社を訪ねたことを思い出します.
老川さんは70歳を越えていたでしょうか.
頭を油で黒くきれいに固めていて,なかなかの艶福家のようでした.
故・老川さんにあらためてお礼申し上げます.
 電子部品工業史については,下記拙稿に書きました.

  “戦後日本における電子部品工業史”,『技術と文明』(産業技術史学会),
  16冊(9巻1号),1994年,63-95頁.



『ラジオの歴史』こぼればなしF  投稿者高橋雄造

 曽田純夫さん(QQQ・中央無線社長)は,
指南役・相談相手というだけでなく,一部分『ラジオの歴史』の共著者のような存在でした.
QQQのカタログ類,TVK(テレビ部品技術研究会)の会則と会員名簿,同第一回議事録,
『NHKテレビだより』などの一次史料を提供して下さいました.
日本アマチュア・テレビジョン研究会(JAT)の謄写版二色刷の会報も,
曽田さんからいただいたものだったでしょうか.島田聡さんほか中央無線内外の技術者関係取材にも,助言をいただきました.

 中央無線には島田さんほか腕利きの技術者が多数いて,梁山泊のようなところだったそうです.
同社はラジオ技術者のゆりかごの役割を果たしたわけです.同社は米国の情報も得ていました.
創業社長曽田三郎氏は売り込みに来るGIからいろいろ聞いて,欲しい物の取り寄せを依頼していたということです.
曽田三郎氏は,会社を大きくする路線を取らなかった.このあたりスターの佐藤氏とは対蹠的です.
自社の技術力に自信があったからでしょう.
 二代目社長の純夫さんは三郎さんの甥御です.曽田純夫さんは大変率直な方で,裏表がなく,
会社の経営者にもこんな人がいるのかと感心しました.
 なお,“ラジオ技術者のゆりかご”と言えば山中無線電機もそうで,田山さん,後出の西川儀市,望月冨ムも社員でした.
おもてからは見えにくいのですが,こういった貢献があってラジオ界が成り立ったのです.
 日立は真空管製造では後発であったので,中央無線に持ち込んで試用してもらったそうです.
QQQの技術力の高さが認識されていたのです.6U8の不良があったとか,
ブラウン管の蛍光膜が通電試験の一晩で剥がれ落ちたとか,です.
また,NECは,真空管のブランド力で東芝に及ばないので,
ひたすらgm(相互コンダクタンス)を高くして――rp(内部抵抗)を下げて,
とも表現できる――評判を良くしようとしたと,曽田氏から聞きました.
テレビ・チューナー用の4BQ7Aあたりでしょうか.
 


管理人の注

小生も 曽田さんにはお会いしました、確かに物静かな方でしたね。
少し先輩の感じでしたが 厳密にはわかりません、千葉方面にお住まいの様子でした。
社長さんとは知りませんでした。
QQQは確かに他社と違う感じでしたね、現在 mT管のソケットを利用していますが、こんな簡単な物も他社にくらべ違いますね。
ましてや高周波コイル類は・・。

日立の茂原工場には定年間際に 学生時代 日立の戸塚工場で 実習した仲間がいるので 見学したことが有ります。
理研真空管を買収して 始めたので 最初は苦労したでしょうね。
子供のころはマツダが別格でしたね、TENも良かったと思います。
田舎ではNECや日立は見かけませんでした、ただナショナルの真空管は20年代は良い思い出は有りません。
3級品扱いでした、フィリップスと提携してから 凄く良くなりましたが。




『ラジオの歴史』こぼればなしG 投稿者:高橋雄造

前回Fに追加: 三研のマイクロホンは性能が非常によかったが,会社が小さくて販売力がなかった.
そこで,中央無線の曽田三郎氏がQQQブランドで発売した.
その結果,三研のマイクはNHKにも採用されるまでになった,ということです.
これも,中央無線の功績の一つでしょう.
曽田純夫さんから聞いた回路設計関連の話など,いくつか.
機器を設計したら必ず試作してみる――これは当然ながら重要です.
ところが”試作して確かめなければならないような設計ではダメだ”と,島田聡さんの言であった.
さすが島田さん! こういう先輩のいるQQQで曽田純夫さんは鍛えられたのです.
“技術者のゆりかご”中央無線の一例です.
キードAGCは,テレビ受像機のAGCとして最高級です.
しかし,キードAGCとパルス幅AFCを併用すると良くない.
これを発見したのは島田さんだということです.
島田さんでも実機の不具合から学ぶ場合もあったのです.
小生は,島田さんに何度かインタビューしました.
氏は広島で育ち,同地のラジオ商のあいだで有名なラジオ少年でした.
小学生のときにコロナスピーカーを作って週刊誌の記事になりました.
東京へ出てきて秋葉原を見た時,”こんなものか”と思ったそうです.
軍都呉が広島の近くにありましたし,戦後の朝鮮特需で広島は繁栄し,電気商には米軍関係の物資があふれていたのかもしれません.
テレビの初期に『ラジオ技術』には,学生だった島田さんが本名のほかペンネーム(堤正雄など)を使って受像機製作記事を書いていました.
 島田聡さんは,別格の超大物です.
東工大卒業時に先生(川上正光教授であったか)から後継者として大学に残るよう望まれたが,承諾しなかったとか.
中央無線時代,島田さんは他メーカーに行くと”先生”扱いであったそうです.
中央無線からA社入りして,トランジスター・テレビを開発しました.
同社では,高周波特性の良いトランジスターさえあればトランジスター・テレビができると思っていたらしく(トップから技術者まで),水平偏向用に大電流スイッチングのできるトランジスターの必要性を思わなかったようです.
島田さんはびっくりしたとのこと.
設計理論について大学の先生の書いたものは具体的な機器設計にどれほど役に立つのかな?と,小生は生意気にも思ったものです.
東工大教授川上氏の著書はとくに中間周波増幅回路について勉強になった,と曽田純夫さんの言.
『電子回路 II』(共立出版,1955年)のことでしょうか.
次は,理論でなく実際面:電子機器において,ハンダ付けの良否は非常に重要です.
曽田さんは,製造のおばさん社員から”社長さんや技術部の皆さんのハンダ付けは下手くそで見ていられない”と言われたとのこと.
有坂英雄さん(倉島さんの書き込みを拝読しました)のハンダ付けについて:手塚則義さん主宰のミーティングで,有坂さん自作の超高周波増幅器を拝見しました.
見事なハンダ付で,ハンダが光っている! 芸術品でした.
メーカーのベテランおばさんでも,こうはいかないでしょう.
3年ほど前に曽田純夫さんから“しばらくぶりに会いましょう”と電話をいただいたのですが,“コロナ禍が落ち着いてから”と返事して先延ばしにしました.
その後,氏は逝去されました.
軽い返事をして断るのではなかったと,悔やみきれません.
あらためてご冥福をお祈りいたします.

管理人の注

曽田さん 亡くなられたのですか AWCの会合でお会いするだけでしたが残念 
ご冥福をお祈りします。



『ラジオの歴史』こぼればなしH  投稿者高橋雄造

前回Gの島田さんとコロナスピーカーについて:
佐伯多門『スピーカー技術の100年――オーディオの歴史をスピーカーから俯瞰する――黎明期〜トーキー映画まで』,誠文堂新光社,
2018年 の71頁に,当時の『週刊朝日』記事の写真が再録されています.

 朝倉昭さんには,オーディオやラジオ雑誌関係でいろいろ指南いただきました.
小生もオーディオ(ハイファイ)にあこがれていたのですが,オーディオはラジオよりもお金がかかるので,
いつも”スタイルブックを見てため息をつく女性” 状態でした.
後年には6RA2ppのOTLアンプを作りました.グレース(品川無線)のトーンアームとカートリッジを使うようになって,
僕も少しリッチなんだ,と思いました.そのグレースの社長である朝倉さんにお目に書かれるとは! 感激・緊張したものです.
 氏は,良家の令息といった感じで,何事にも明晰に話して下さいました.調布飛行場から自家用機を操縦して飛ぶなど,
多趣味の人です.米国(AES)と日本のオーディオ協会の役員を務めて,
多忙のようでした.港区・品川方面にあった富士製作所や
浜地のハマチヴァルヴの工場・店の名残り(バス操作場になった場所とか)を語って下さいました.
朝倉さんは,工業会やラジオ雑誌(『電波科学』であったか)の編集部に勤務していたので,
情報・顔が広い. グレース(品川無線)は,レコードプレーヤーのトーンアームや
カートリッジのメ−カーです.戦後のひところ,西川電波(パーマックス)が斯界の大手でした.
パーマックスはスピーカーも作っていました.同社と創業者西川儀市について調べたい,
と思っていました.朝倉さんや,のちソニー社入りした森園正彦さん(テープレコーダーの),
吉田進氏も西川電波に勤務していました.朝倉さんは,西川氏が存命である旨をおっしゃっていました.
しかし,西川さんと連絡をつけることはできませんでした.何といっても西川氏は大物です.
同氏といい,佐藤俊氏といい,挫折した大物に会うことは困難です.
 朝倉さんは,すべてゆったりとした方で――余裕がある――競争社会の企業社長にこういう人がいるのか,と思いました.
小生がインタビューした方々は誰もどこかしっかりと闘志を持っていると感じさせるのですが,
朝倉さんは一寸ちがいます.
業界のコーディネーターとして貢献する人でもあるのでしょう.
この点では老川正次郎さんと似ています.こういった指南役のおかげで『ラジオの歴史』ができたのであり,大変ありがたく思います.




『ラジオの歴史』こぼればなしI  投稿者高橋雄造

 ラジオ雑誌については,南波十三男さんからいろいろ教えていただきました.
お目にかかることはできませんでしたが,電話で何度も質問し,ご意見をいただきました.
氏は,『電波科学』,『ラジオ科学』や『電波とオーディオ』の編集部員・編集長を務められました.
奈美野冨男というペンネームも使いました.並の男という意味です.
電話で会話した印象では,なかなかのサムライのようでした.
不躾な質問をたくさんして,よく怒鳴られなかったと思います.
ラジオ雑誌編集・発行の内実は,小生のような部外者にはわかりません.
南波さんは,最盛期の各ラジオ雑誌の発行部数などを教えて下さいました.
店頭に並べるべく書店に運ばれてくる,その部数のうち1割はロスとなる,
ということも.南波さんに心から感謝しています.

 柴田寛の『ラジオ科学』(『ラヂオ科学』)を愛読した人も多かったでしょう
(ことに地方で).小生の記憶では,書店の店頭で見ても,いかにも垢抜けがしない,
判型も他誌より小さい.”読者の声”も編集部補作(あるいは全くの編集部作)みたいで,
東京のラジオ少年には向かない.地方のラジオ工作ファンにはアピールしたのでしょう.
都会的な『ラジオ技術』とは天と地のちがいです.
これは柴田寛(”柴寛”と呼ばれた)の戦略であったようです.
”日本一安いラジオ雑誌”と謳っていました.ラジオ工作少年は,
スタイルブックを見てため息をつく女性のようなところがあります.
先端モードにあこがれるにしても,読者の境遇からあまりかけ離れていないものを見せた方が購買欲を刺激する,
これが柴寛の戦略であったのでしょう.ハイブラウは避ける,ということです.
 柴寛と『ラジオ科学』については,下記に詳説しました.彼は,『ラジオ科学』ののち,
ガム製造へ転身しました. NHK技研所長でおっとりタイプの中島平太郎さんがやり手の柴寛と親しかった,
というのは何かチグハグは感じがします.中島さんは,
”自分の文章は柴田さんに直してもらってできた”とおっしゃっていました.
実は柴田さんは中島さんの仲人であったそうで,それならば・・・です.
中島さんには,その後何度もお目にかかりました(A社の介在なしに).
大変率直な方です.氏は,後輩技術者に慕われ,ファン(信者)も多かった.
”スピーカは2way・3wayと分けるほど,良い音になる”とおっしゃっていま
した.高音と低音の混変調のようなものが良くない,ということでしょう.
小生の場合,ステレオは未だに三菱の6インチ半で聴いています.2way・
3wayにするお金がないし,巨大なスピーカーボックスを二つも置くスペースがないからです.

- ”柴田寛と『ラジオ科学――ラジオ雑誌の歴史』”,『科学技術史』(日本科 学技術史学会),6号,2002年,31-70頁.
なお,同誌4号,2000年に,柴田徹”『初歩のラジオ』の寄稿者たちの経歴とその特質”もあります.
戦後の学校で職業家庭科にラジオ工作が入って,教員たち(ことに地方の)が『初歩のラジオ』でラジオ技術を勉強しました.
『ラジオ科学』も,でしょう.ラジオ技術の通信教育も役立ったはずです.

管理人の注

ラジオ科学とは こんな表紙の雑誌です。















幕間・『ラジオの歴史』(こぼればなしIの後)  投稿者高橋雄造

 お詫びとともにIに補正します:“中島さんには,その後何度もお目にかかりました(後述するA社の介在なしに)”とします.
 内尾さん,画像を出して下さってありがとうございます.”こぼればなし”に画像を入れようとも思ったのですが,入れたい画像が多数あってきりがな
くなるので,断念しました.『ラジオの歴史』には,写真・図をふんだんに入れました.
 『ラジオ科学』に限らず,ラジオ雑誌の代理部ページ・代理部頒布はまことに盛んでした.
地方のファンにとってこれほど有難いものはなかったでしょう.
小生には,手の届かないものが並んでいる”スタイルブック”でした.
代理部ページは本文の”目玉”である製作記事とも連動していて,代理部の利益が雑誌販売を上回っていたこともあったようです.
科学教材社(誠文堂新光社の小川社長の弟がやっていた)刊行の『ラジオと模型(ラジオと模型工作)』誌の例もあり,
ラジオ雑誌と代理部とは連動して一体でした.部品・真空管頒布は浜地の『ラヂオ』から始まっていることも,指摘しておきましょう.
 製作記事を書くライター”先生”や編集部には,部品会社等から”サンプル”
部品がたくさん届けられたようです.”作ったつもり”の製作記事もあったかもしれない(25MK15のはずが35W4が挿してある写真の製作記事があった).
また,ふんだんに届けられる部品でラジオや電蓄を組立てて知り合い等にわけると,編集部員のよいアルバイトになったとか.
 回路図の版は手書きであったようで,これは職人技・名人芸ですね.下手くそな回路図を載せる雑誌もありました.
島田聡さんは,印刷ぎりぎりまで
回路図を渡さない,編集・印刷泣かせであったそうです.長い線を何本も引っ張る回路図はダメなんだ,と島田さんの言.





『ラジオの歴史』こぼればなしJ  投稿者高橋雄造

 『ラジオ技術』の誌面は斬新でした.石井富好がこれに貢献したと思われます.
『ラジオ技術』創刊の頃,仙花紙(再生紙)を使っていたので,
石井は写真図を必ずおもて面に来るように編集しました(うら面はざらざらしていて写真が汚くなる).
彼の功績の一つです.石井は,『無線と実験』で古沢の後の第二代編集長でしたから相当のベテランですが,
先輩編集者たちから低く見られていたようです.その理由ははっきりしません.
小生が調査した時期に,”尾羽打ち枯らした石井にバッタリ出会った”と言う話を聞きました.
アルコール依存の自己破滅型? 戦後に,石井はRex(変圧器製造の巴電機製作所)にいたことがあります.
平田電機製作所(タンゴ)の平田兄弟もRexにいたと言います(Rexの社長あるいは平田が山形県酒田出身で,
石井と同郷であったか).そこで,タンゴ社に連絡を入れました.しかし,このルートによる調査はうまくいきませんでした.
石井の人と業績はきちんと書き遺されるべきである,と考えます.
 ラジオ工房掲示板の皆さんの多くが,『ラジオ技術』誌だけでなく”ラジオ技術全書”のお世話になったはずです.
小生は,今でも一木吉典『全日本真空管マニュアル』ほかを持っています.
これら”『ラジオ技術』文化”と呼ぶべきものがあったことを,指摘しておきたい.
元・編集部の人でも”『ラジオ技術』物語”というような記録を書いてくれることを希望します.
 小生は,ラジオ技術社(神田淡路町)やエーアイ出版を訪ねたことがあります.
『ラジオの歴史』を謹呈しようとエーアイ出版に行ったのですが,間の悪いことに『ラジオ技術』刊行締切間際であったらしく,
挨拶もそこそこに退去という羽目になりました.この頃の編集長は視力が落ちて大変であったようです.
 『ラジオ技術』ライターには,北野進さんほか東工大の教員・学生が多かった.そのせいか,
それまでの他誌とちがった品の良さがあります.日本オーディオ協会創立グループと『ラジオ技術』グループとは重なっており,
同誌はオーディオ技術誌としても成功しました.また,『CQ』の創刊号は東工大北野研究室で編集された,
と北野さん自身の言です.『ラジオ技術』誌上の富木寛は北野氏のペンネームで,
負帰還(ネガティブ・フィードバック/NF)をもじったものです.ラジオ技術社 “ラジオ技術全書”シリーズ中の
『ハイファイアンプの設計』の著者の百瀬了介は,北野研究室の研究生であったとのことです.
北野さんは大学の先生から転身し起業しました.当時の斯界では珍しい例でしょう.
風貌もプロフェッサー然として,気さくな方でした.
“東工大では実験室内各所にマイクロホンを配置して音波の空間分布を分析した”とおっしゃっていました.
研究トピックとしてはおもしろいな,と思いました(小生も実験研究者でしたので).
商品開発に必要なセンスはこのような研究者の能力とはちがうでしょうが,
氏のNF回路設計ブロック社はアナログ技術の製品に重点を置いて好調でした.
石井富好について北野さんにくわしく訊いておくべきでした.

 ラジオ雑誌調査に関し,為我井忠敬さんに大変お世話になりました.戦後の『ラジオアマチュア』(『CQ』とは別物),
『ラジオと実験』,『ラジオ世界』などは,為我井さんからいただいて知った雑誌です.氏は,戦中,軍需省の軍需官でした.
お堅いエリート役人・技術者がラジオ工作ファンであったとは,びっくりしました.陸軍技術大尉,戦後は防衛庁,専門は電波兵器・防
空シスシテムであったようですが,『水――水と産業』,あいうえお館,1983年 という子ども向けの本を書いています.
幅広く知識を持っていた方であったのでしょう.




管理人の注
 
ラジオ技術の創刊号が有りますので紹介します 確かに紙は悪いですね、印刷が・・・。








ラヂオと自作  無線電話






ラジオアマチュアー表紙




その裏面




幕間・『ラジオの歴史』(こぼればなしJの後)  投稿者高橋雄造 

 内尾さん,『ラジオ技術』創刊号の画像を出していただき,ありがとうございます.
『ラジオ技術』創刊号は貴重品です.小生は初めて見ます.以下,これを見て考えたことなど.
 『ラジオ技術』のルーツは,他誌とちがって独特です(『ラジオの歴史』61-64頁).理化学研究所(理研)周辺に”科学主義工業”グループがあり,
これは左翼系であった.戦後,同グループは生きるために石けん会社や婦人雑誌といった事業をやったがうまくいかず,
『ラジオ技術』だけが成功しました.発行所の”科学社”は,科学主義工業の改称です.
 内尾さんの画像の創刊号目次を見ると,解説記事が多く,溝上_,高村悟,
富田義男といったNHK関係者が執筆していて,ややお堅い雑誌という印象を受けます.
”民”よりも”官”に近いという感じか.東工大教員の実吉純一の名もあり,東工大との関係が当初からあったことが窺われます.
理研の大河内正敏所長の甥である大河内正陽が東工大教員で戦後の日本アマチュア無線連盟理事長でしたから,
科学主義工業グループは東工大やラジオ界とも近かったと推定されます.
石井富好の“創刊の言葉”からも,大河内正敏によるサポートがあったことがわかります.
また,大河内正敏の子のひとりが左翼であったことも関連しているかもしれません.
主筆・石井がもともと大河内正敏に近かったかのかどうか,また,左翼であったかどうか,わかりません.
執筆者の島田公明は島田聡とは別の人か.”公明”と”聡”とは,字が通ずるようにも思われますが.後述のS氏も書いています.
 編集部の顔ぶれなど:寺沢〇充は,『無線と実験』編集長であった寺沢春潮とは別人でしょう(石井と寺沢春潮とは不仲であったと伝えられます).
全くのあてずっぽうですが,創刊号編集スタッフのなかで左翼?と思われるのは福士実でしょうか.
 後年の『ラジオ技術』編集部にも左翼人がいたかどうか? 原正和は科学主義工業系であったようです.
 それにしても,石井が『無線と実験』を離れた事情を知りたいところです.
ラジオ雑誌編集関係者に訊く機会はあったのですが,何か微妙なことがありそうだ(もめごと?)と感じ,
ズバリ質問しない方がよいと,見送りました.何人もの方にしつこく尋ねるべきした.
 掲載広告から雑誌の”勢力圏” がなんとなく推測されるのですが,この『ラジオ技術』創刊号広告の会社の多くは初見で,ピンときません.
 以上,大変細かいことを書き連ねました.皆さんにはご迷惑かと思いましたが,内尾さんのご配慮,せっかくの機会なので書いてみました.
お許し下さい.




『ラジオの歴史』こぼればなしK  投稿者高橋雄造 

 ラジオ雑誌・アマチュア無線雑誌の編集部員やライターのプロフィルは,興味のあるところです.
前掲拙稿”柴田寛と『ラジオ科学――ラジオ雑誌の歴史』”の36-37頁に,
日本のラジオ雑誌43誌と主な編集者を一覧しました.
 『電波科学』の編集部には固い序列が存在したようで,有能であっても編集長になれない(なれるはずがなかった)人もいたようです.
白戸庸一・増田正諠らが『電波科学』を出て『電波技術』を発刊したのには,このような事情があったらしい.
NHK/日本放送出版協会も元々はお役所みたいなものですから,学歴身分制でもあったのでしょうか.
 斎藤健さん(JA1FD),菅宮夫さん(JA1CO)にもインタビューしました.
『CQ』誌等に書いていたライターにラジオ少年はあこがれていたものですが,
会ってみると(当然ながら)小生の抱いていたイメージとは少々ちがいます.
お二人とも,実直な方という印象でした.藤室衛さん(JA1FC)には,何度も会いました.
小生の144MHz送信機は氏の記事を手本にした(2E26プレートの同調回路と,これ用のチョークコイルの作り方など)ので,
氏は大変エライ人だと思っていました.実際の藤室さんは裏表などない気さくな方でした.
 岡本次雄OM(JA1CA.『アマチュアのラジオ技術史』ほかの著者)を,鎌倉のお宅にお訪ねしました.
木賀忠雄OM(JA1AR)に同道していただきました.秋葉原に電気街が移る前からの神田のラジオ・電気関係の店について教えて下さいました.
”神田”(並四とか5球スーパー用の穴あきアルミシャーシーを”神田シャーシー”と呼ぶ神田です)については読んだり聞いたりしていましたが,
戦前からの実体験の話は格別で,非常に参考になりました.
岡本さんは独居老人で,ベッドに寝た切りのまま話をされる.詳細・明瞭なお話で,迫力がありました.
 泉弘志さんには『絵で見るラジオのABC』等でお世話になった人も多いでしょう.
イラストを含めて独特の筆致で,初歩のファンにわかりやすいだけでなく,見て楽しい本でした.
会ってみるとやや気難しい人のようで,父君は皇国史観で有名な東京帝国大学教授平泉澄だということです!
何かチグハグな印象を受けました.
 ”文は人をあらわす”と言いますが,読者が持つ印象と著者の人柄とは別物のようです.これは,読者の勝手な思い込みによるものでしょう.
 通信型受信機の研究を書いたSさん(日本人)がいました.彼は米国在住で,小生は米国に行った折に氏に会いました.
日本にいたころラジオ雑誌への投稿者からライターになり,フィアンセに誘われて米占領軍で放送傍受の仕事に従事するようになって,
沖縄の基地にも勤務したとのことです.短波受信機にくわしいのは当然です.“籠の鳥”状態での仕事だったらしい.
その後,Sさんは米国へ移住しました.初対面で短時間の面談,話がインテリジェンス(諜報)活動関係に及ぶので,立ち入った質問はできませんでした.
その女性はもともと米インテリジェンスのスタッフで日本人の氏をスカウトした,と想像することもできるでしょう.
このような例はほかにも相当数あったにちがいありません.その後S氏は,有償で来日インタビューに応じるという提案をしてきました.
小生にはその金額を工面できず,これは断念しました.なお,小生が行なったインタビューはすべて無償で,
実現しなかったこの件は唯一の例外です.

 一度だけのインタビューでは,肝心な点を率直に質問しにくいものです.核心にふれることは,往々にして,
本人はしゃべりたくない(都合が悪い)からです.初対面のインタビューでは,こちら(小生)も予備知識不足で問題の中心がよくわかっていない,という事情もあります.
インタビューも二度以上になると,”頃合い”がわかってきます.何を質問してはいけないか(逆鱗にふれる)もわかってきます.
ことの核心は,本人でなく,周囲の人(できれば複数)から訊き出すほかありません.
(新聞記者によるインタビュー記事の多くがハチャメチャなのは,事前調査不足のうえ,二度もインタビューする暇がなく,
あらかじめストーリーを作っておいてこれにあてはめて記事を書くからです,)インタビューでは事前調査がいちばん大事です.
その意味で,前述の指南役・相談相手の方々の存在が大きかった.インタビュー相手が”なんだこいつ,
何も知らないんだ.テキトーにあしらっておけ”と思うのと,”おや,ちょっとはわかっているな”とのちがいです.
また,相手が”有名人”の場合は,いろいろなインタビューアーから同じ質問を何回もされていて,
答も類型化されて本人のアタマに刷り込まれています(新聞記者にはこのような答をすれば,それでよいのです).
有用な情報をしゃべってもらうには,類型化された答以上のものを引き出す力が必要です.



管理人の注

藤室衛さん(JA1FC)は 管理人も 何度もお会いしました、サラリーマン時代にも こんな人柄の良い人は珍しいと思うほどの方でした。
愛妻家(恐妻家?)の感じもしましたね、比較的若くして亡くなりました、また会いたい感じの方でした、ご冥福をお祈りします。

雑誌の紹介




刊行のいきさつの説明





電波科学8月号  編集後記?





幕間・『ラジオの歴史』(こぼればなしKの後)  投稿者高橋雄造

 内尾さんの『電波技術』創刊号表紙,ありがとうございます。
”『電波科学』全編集部員責任編集”とはスゴイですね.
かたちとしては『電波科学』から円満退社のようですが・・・.
『電波技術』画像に”「電波科学」1953年8月中有効 ラジオ技術相談券”とあります!
 『電波技術』の増田正誼は,のちにまたスピンアウトして,『電波実験』を始めました.
諸ラジオ雑誌の編集スタッフたちには出入りもあり(一例として『ラジオ技術』の福士実はのちにオーム社の『ラジオと音響』にいた),
全体として事情に通じた仲間であったにちがいありません.『ラジオ科学』の柴寛が音頭をとってできたでラジオ雑誌記者の会もありました.
ラジオ雑誌編集部の周辺や内幕などをOBの方でも書いて下さると面白いのですが.
今となっては書ける人は存命でないでしょう.
 内尾さんの『電波技術』創刊号画像中の”次号予告”に望月冨ム(後掲)があります.
編集後記の”田島”は,後掲JATの会員になる田島定爾さんでしょうか.
この編集後記の久我さんにも会ったことがありますが,くわしい話は聞けませんでした.
 村瀬一雄氏はNHKのこの関係では重要人物であったようです.日本放送協会には,
創立以来,W大学主流という位階があったように思われます(お役所・公的機関で国立でない大学が幅を利かしたのは,珍しいことでしょうか).






『ラジオの歴史』こぼればなしL  投稿者高橋雄造

 大会社の社員である方にインタビューして,おもしろい話が聞けることはあまり期待できません.
サラリーマン技術者で,タガがはまっているからです.現在いる会社以外の話ならば,事情はちがいます.
 部品製造の中小企業というと大メーカーから図面を渡されて製造するというイメージもありますが,
それは機械部品についてであって,汎用性のある電子部品はちがいます.
技術では上の中小企業に大会社が学ぶ場合も多々あります.前述の中央無線は,その例です.
片岡電気(アルプス)は大手セットメーカーT社にテレビ・チューナを供給していました.
ある時期からT社はこれを内製に切り替えました.T社のテレビのそのチューナーにはアルプス・チューナーと同じ設計ミスが残っていた,
という話.T社のチューナーはアルプス・チューナーのコピーであったわけです.
大メーカーは専門メーカーに部品を納入させて,その技術やノーハウを学ぶ(いただく)のです.
 八欧無線(ゼネラル)が不調になったとき,同社技術陣の力を買って,同業他社がゼネラルの技術者を引き取りました.
新しい職場での彼らの貢献は大であったと言います.
さて,聞いた話:ゼネラルが不振で,経営立て直しのために銀行から経営陣が派遣されました.
創業社長八尾敬次郎は心痛のあまりボケてしまいました.
しかし,時々”正気”に返り,社の廊下で現社長の”銀行屋さん”をつかまえて,
”僕の会社を食い物にして,元に戻してくれ”と言う,部下は”社長,およしなさい”と袖を押さえる.涙するような話でした.
 NHK技術研究所所長であった中島平太郎さんは,のちA社入りしました.中島さんはNHK技研でスピーカー技術を手がけ,
これを三菱電機(ダイヤトーン)と福音電機(パイオニア)に移転しました.A社では,ディジタル・オーディオを開発しました.
同氏にインタビューしたのは,氏がA社の現役を退いてからであったか.インタビュー場所はA社の一室でした.
入ってみると,A社社員が3-4人ズラッと座っているのです.中島氏発言のチェック(チョーク)であることは明らかでした.
”ははあ,A社もふつうの大会社なのだな”と思いました.
 A社は技術者が自由に腕を振るえるところだ,という伝説があります.トップエリート技術者は,”マコトくん”・”セイイチちゃん”とか,
ファーストネームで呼び合っていたようです.これは米国流でしょうか,同社B氏のスカウト能力は大したものであったようですが
スカウトされて入社した技術者全員が存分に活動できたかどうか.中島平太郎氏のような大物でも,監視の眼にさらされていたようです.
中央無線から入社してトランジスター・テレビを開発した島田聡さんも同様でしょうか.島田氏はA社でC氏に相当??られた,
ということを第三者から聞きました.C氏はB氏のお気に入りで,トランジスター・テレビ開発の責任者,
つまり島田さんの前任者でした.C氏がトランジスター・テレビ開発に成功しなかったからでしょうか,
島田さんはその功績にもかかわらずA社で然るべき処遇を受けなかったようです.
 A社には,また,規格外のネジを使う性癖がありました.他社との互換・
共通性を嫌ったか.開発陣幹部のC氏が機械工学科出身であったからか(であったのに,か)?
 ドイツ語では,”sauber und sachlich”という言い方があります.意味は清潔・清廉で公正,誉め言葉です.
大組織はsauber und sachlich一辺倒では立ちいかないのでしょう.



『ラジオの歴史』こぼればなしM  投稿者高橋雄造

 東芝も大会社です.佐波正一さん(元社長)とは,電気学会関係のこともあって,何度か本社の執務室に訪ねました.
窓から見える芝浦の景色はなかなか素敵で,
明治初年の陸蒸気開通・電信開通の頃もかくやと思われるものでした(現実に見えている物体は往時とはちがいますが).
 この眺望が佐波さん訪問の一番の収穫だった――というのでは不謹慎ですから,
以下を書きます.高名な牧師の植村正久の娘婿である佐波亘牧師が,佐波正一氏の父君です.
佐波正一さんも,戦後には国際基督教大学理事長を務めました.氏は,東京帝国大学電気工学科の学生のときから,
”東芝の社長になる人”と目されていたそうです.戦時体制下でキリスト教が”ヤソ”と呼ばれて嫌悪されていた時代ですから,
佐波さんがいかに傑出した人物であったかがうかがわれます.
 なお,キリスト教界の大物で,佐波亘を師と仰ぐ武藤富男という人がいました.武藤は神道にも接近し,
満州国官僚として辣腕を振るい,戦後は明治学院(ローマ字のヘボンが創立したキリスト教系の学校です)の院長になりました.
キリスト教徒が戦時体制に親和したという例です.戦後の左翼社会運動家の武藤一羊がこの武藤富男の子だそうですから,
ややこしい.武藤富男『恩師二人 : ウェンライトと佐波亘』,1967年という本があります.
 佐波さんは東京芝浦電気(東芝)に入社して,軍人に通信技術を教える教官という役回りになりました.
氏の専門は強電分野でしたので,城南・川崎あたりの中小工場を訪ねて電気通信・無線の知識を身につけたのだそうです.
終戦直後,電力が余った時期が短期間ながらありました.焼け野原で需要者が壊滅したからです.
この頃には大電力高周波で木材を乾かすといったことが行われた,と佐波さんの話.
茶葉の高周波乾燥もあった.ビニールを接着する高周波ウェルダーというのもありましたね.
 佐波さんに山中無線電機の話をしたら,同社の所在地であった大田区の不入斗(いりやまず)を懐かしがっていました.
山中無線電機は東芝の傘下に入った会社ですから,佐波氏ともかかわりがあったのでしょう.
 小生は日本の電子工業の海外生産拠点を見たいと思い,佐波さんに頼んで
米国の東芝テレビ工場(ナッシュビルであったか)を見学させてもらいました.
小生がテレビ修理のアルバイトをしたころの真空管式シャーシーとちがって,
半導体カラーテレビのシャーシー(基板)はあっけないほど薄かった.
 フォスター電機(Fostex)のシンガポール(ビンタン島)のスピーカー工場を見学したこともあります.
同社の市川秀一さんに紹介していただきました.これらの見学はどちらも,日本の電子工業最盛期でした.
このスピ−カー工場では,女工さんがずらりとベルトコンベアの前で組立て・接着作業をしていました.
学生時代の見学のとき,テレビ受像機工場で頭に布をかぶった女工さんのベルトコンベア組立て作業を見ました.
何列ものコンベアが遥か彼方まで続いていて壮観でした.シンガポールのスピーカー工場のコンベアは,
ずっと小ぶりでした(スピーカー自体もテレビ受像機のシャーシーより小さい).工場前に若い女性多数が列を成していました.
女工を何人か補充するというので,面接待ちの列です.狭き門です.女工さんは,土地ではエリート格なのでしょう,
女工さんの生活は”籠の鳥”なのだろうな,と思いました.かつての日本を見るようでした.
 さて,その東芝社はいま,無くなったわけではないけれども・・・佐波さんが存命だったらどう感じたでしょうか.
小生の専門分野では?な技術部長がいました.彼一人のせいで東芝が左前になったわけではないでしょうが.
大組織である大会社には,このような幹部が一人や二人いるのでしょう?
 電子部品工業史を調べたとき,高野留八さんを取材しました.東芝川崎の工場で辣腕をふるい,
出入りの中小企業にはずいぶん”重し”がきいたようです.部品技術の向上・部品工業の育成に非常に熱心だった人です.
東芝で氏は決して位階が上の部類ではない.大組織では,たとえ部長とかもっと上がどうであっても,
中ほど・現場にしっかりした人がいて会社を支えているのです.
東芝は,日本の電機工業の初期から技術の導入と国産化に努めてきました.米GE社の系列会社だったこともあります.
外国から得た技術を咀嚼して関連の中小企業に教える,日本の電機工業の” 長男”としての責任を東芝は果たしてきました.
高野さんの仕事もその例です. ところで・・・工場の人事異動は,出入りの中小企業の連中の方が東芝社
員よりも早く知っていた,ということです.当然ですかネ. 東芝と日本の電子部品工業を支えた高野さん,
どうして東芝はこんなになっちゃんたのだろう.高野さん存命ならばどう感じるでしょうか.



管理人の注)

東芝には14人の同級生の内 2名が就職しました、いい会社と思ったのに、いつの間にか。
当方が勤務した日立は 何故か 今も元気ですね、企業年金も頂いているので 
東芝はこの場合どうなるのか他人事ながら心配です。
一人は早々に退職 もう一人 仲の良かった友人は最近天国へ。



『ラジオの歴史』こぼればなしN  投稿者高橋雄造

 秋葉原の電気街についても調べました.いまは秋葉原の老舗家電店がいくつもなくなりました.ラジオストアーも閉店.諸行無常です.
 秋葉原の家電店ほかについて,角田無線電機の角田昭永社長(廣瀬無線の広瀬太吉氏の令弟だそうです.
お二人は山梨県出身)が,アドバイスして下さいました.いくつかの会社の社長にインタビューしました.
中小の会社の社長(創業社長)はたいたもので,いろいろな情報を集めて自分で判断します.
世の中のさまざまな動向をキャッチして知っている(二代目社長となると,ゆったりしたジェントルマンが多い.CR社の安部守さんほか).
大企業の社長とはちがいます.角田さんに何度か会って,このように思いました.氏は,何か訊いても的確な返事・情報がすぐ返ってくる,
”そうなるのはこういう理由があるからだ”と言う明快な説明(それがいつ何年のことであったか,
まで)です.流通・取引・営業関係は苦手な小生は,本当に助かりました.角田さんと老川正次郎さんとは,似たところがあります.
 流通・取引,系列化というと,M社の名がよく出てきます.電子部品関係で聞いた話ですが,品質優秀で堅実な部品メーカーがある.
M社の営業が訪ねて来て,”うちにも納入してくれ”と言う.今の顧客で手一杯で十分儲かっているからと断っても,
何度も通ってくる.そこまで言うならば少量だけ応じましょう,ということになる.しばらくしてから,取引量を増やしてくれ,
となる.拝み倒されて納入量を増やす.これが繰り返され,製品の大半がM社向けになっている.そこへスパーンと発注打ち切りとくる.
この部品会社はM傘下に入らないと倒産することになる.この会社の技術はそっくりM社のものになる・・・.
また,自動車メーカーH社はイメージの良い会社ですが,”やり方がエグい”と知り合い(油圧機器会社の社長)が言っていました.
企業の競争社会では,エグいのは珍しくないのかもしれません.
 D社の営業社員が秋葉原界隈のとある店に入って,しばらくすると出てくる.電柱の陰にいたEの営業が店に入って,
”今のはこれでしょう”と言ってソロバン(電卓)で数字を出す.と,手を打ったばかりのDの金額とぴったりです.
”うちはこれにします”といって低い数を示す.取引成立,E社の逆転勝利です.この類のこと,よくあったのでしょう.
 大手電機メーカーH社はラジオ関係ではやや後発であったので,野武士精神というのか.営業も頑張ったという話.
和歌山県下の某地区のM系列電気屋(家電店)の全部を,一夜にしてH系列に寝返らせたことがあったとか.
和歌山はカリスマ創業者Mさんの出身地ですから,M社の部長か課長の首が飛んだでしょうか.
 次の話,秋葉原のサトー・パーツの社長であったか,太平洋戦争でラバウルか南方の島に駐屯しました.
ラジオ放送を聴きたい.錆びたカミソリの刃に小便をかけると検波器になるので,
レシーバー(受話器/ヘッドホン)さえあれば鉱石ラジオができるのだそうです.ホンマかいな? 追実験しましょうか.
 秋葉原は話題性があり,よくジャーナリストの記事にもなります.しかし,研究資料に使えるような本・論文は非常に少ない.
一橋大学の山下裕子氏(教授)の研究が有用であると思いましたが,その後これを氏がどうまとめられたか.


管理人の注)
H社とは管理人が勤務していた日立でしょうね、和歌山の話は知りませんが、会社の上司に 元宣伝部の人が居ました。
通天閣の広告を取ったのが自慢でした。
先方 相当お怒りで 雷門の提灯を寄付したとか

自分が就職したころは日立は新興(創業50年)で東芝は100年企業と言う感じでしたかから なんでも我武者羅でしたね。
ただ仕事はコンピューターだったので 東芝や松下にライバル感は有りません。
新入社員のころ 仕事の関係で 開通前の新幹線に昭和37年に乗せていただきました、時速70Km/s。
(現在のドクター イエローの前身 軌道試験車も 本社社員として担当)


Re:『ラジオの歴史』こぼればなしN  投稿者倉島

今晩は。
高橋先生の投稿を帰りの電車内で読み、次の論文があったので、ついでに読んでみました。
1993年発行の組織科学ですから、30年ちょっと前ですね。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/soshikikagaku/27/1/27_20220630-105/_pdf
なかなか、一般人には馴染みがないというか、理解しにくいところはありますが、大手家電メーカーと家電量販店との関係は、面白いなと思いました。
仕事で、H家電の元常務とお付き合いがありますが、以前の量販店の力は強かったようです。



『ラジオの歴史』こぼればなしO  投稿者高橋雄造

 倉島さん,山下先生の論文についてご教示ありがとうございます.

 テレビ放送の初期には,受像機メーカーにもテレビ局にもテレビ技術のわかる人がほとんどいませんでした.
大手メーカーが受像機製造を始めるにあたり,社員のうちでラジオ・テレビ工作ファン,
テレビ受像機を組み立てたことのある者を探して担当チームをスタートさせたりしました.
受像機生産には,工員と工員指導係の技術が必要です.受像機生産は急拡大の一途でした.
そこで,受像機メーカーは街のラジオ・テレビ技術学校の先生による社員講習をしたり,これらの先生を招聘して社内学校をひらいたりしました.
”多摩川の向こうの”テレビ学校に頼んで来てもらった,というような表現を読んだことがあります.
社員に組立てさせて訓練するためのテレビキットを大量に作った大手メーカーもありました.
ラジオ・テレビ技術学校の修了生を社員として雇用したりしました.大会社Hで採用基準に満たないにもかかわらず多数を社員にした,
と工場史に書いてあります.社内で異質の存在であったがよく働いてくれた,とか.
 テレビ局にも技術者が必要です.初期にはとくに不足し,貴重な存在でした.小生の知り合いのひとりはラジオ・テレビ工作ファンで,
最初期の?本テレビに入社しました.” ?テレにあのままいたら,いまごろは重役になっていた”と笑っていました.
 テレビ技術関係では,曽田純夫さん,石橋俊夫さんのほか,平沢進さんにいろいろ教えていただきました.
業界の実情は部外者にはなかなか理解できませんので,これらの方々からのご教示は大変助けになりました.
 原島四郎氏と言えば,テレビ放送開始前に受像機を組み立てた人で(日本放送出版協会の雑誌『ラジオとテレビジョン』,創刊号,1950年の表紙にも
なっている),NHK技研のスタッフが”ご意見拝聴”したというスーパー大物です.
タバコ屋の店番をしながら受像機を組み立てた,とも伝えられます(三宅博談).
小生が会ってみると(三宅博さんも一緒に),ふつうの人でした.こういった方々を皆エライ人だと思い込むのは,
元ラジオ少年の習性/特権でしょうか.
 日本アマチュア・テレビジョン研究会(JAT)についてはおもしろいことが沢山あって,とても書き切れません.
TV K(テレビジョン部品技術研究会)についても同様です.JATと日本オーディオ協会関連のことを,下記拙稿にも書きました.
 TVKは,NHK技研の石橋俊夫の指導下につくられ佐藤俊(スター)が会長,曽田三郎(QQQ)が副会長格でした,
NHKの意図通り,TVKは受像機産業を創成するのに大変に役立ちました(JATも).しかし,ある時期に,
石橋さんは”テレビ部品・受像機製作技術のノーハウをこれ以上ラジオ雑誌に書くな”と言ったそうです(曽田純夫氏談).
曽田社長は不本意であったでしょうが,NHKとしては受像機自作アマチュアや中小企業に頼る時期は終わり,
受像機量産メーカーの時代に移行する,ということだったのでしょう.こうしてTVKは(JATも)歴史的使命を果たし終えました.
 JAT役員・会員で”こぼればなし”に出てくる名に,永田秀一,松浦一郎,原島四郎,増田正誼,富田潤二,春日二郎,三宅博,田島定爾があります.
 JATの女性会員であった上田(甘利)静江さんにも,インタビューしました.ほかに『ラジオの歴史』関係でインタビューした女性に,
『無線と実験』編集部の竹内王子(きみこ)さんもいます.電子部品(コネクター)の多治見無線の多治見孝子社長,
高槻無線(タカヒロ電子.『CQ』に頒布ページがあった)の高槻弘子社長,八木アンテナ関係の八木和子氏,一橋大学の山下裕子先生も.
 JATの事務局は松浦一郎(秀行)が引き受け,JAT本部は彼の東京音響(浦拡声器製作所)でした.松浦氏は建築畑の人で,
自己流のラジオ修理からラジオ界に入りました.コオロギほか鳴く虫の研究家で,大学の研究者も話を聞きに来たということです.
ところが――曽田純夫さんは世田谷の松浦家にテレビ修理に行ったそうです.
修理ならば腕に覚えの松浦さんであるはず(兵頭勉というペンネームで『ラジオ修理メモ』という本を書いている――兵頭
勉はベートーベンをもじったものです)なのに,ご自分ではテレビの故障修理はしなかった? 曽田さんがいい加減な話をするはずはないし・・・.

 - “ラジオ技術における非公式な研究交流団体の歴史―― I 十日会の足跡”,
 『科学技術史』,10号,2007年,77-90頁.
十日会のメンバーとして,”こぼればなし”に登場する次の面々がいました:松浦一郎,原島四郎,春日二郎,白戸庸一,朝倉昭,池田圭.



幕間・『ラジオの歴史』(こぼればなしOの後)  投稿者高橋雄造

 津田さんの書き込み,ありがとうございます.ベテランの方々が回想を書いて下さると,大変参考になます.
 初期の自作テレビ受像機は静電偏向で,ブラウン管はオシログラフ用の流用でした.
近所の電器店でテレビが日除けをして暗くした店頭につけてあって(画面の輝度が低かったから),人が群がっていた.子どもだった小生も.
 第二次大戦前に米国で発売されたモトローラ社の受像機レインボービジョンも静電偏向で,偏向終段菅は水平・垂直とも6SN7でした.
戦後の日本国内の静電偏向受像機の例では,高圧は6V6の高周波発振方式,これ用の発振コイルも発売されました.高圧整流はKX142でした.
 店頭デモのテレビと言えば,秋葉原・中央通りに都電が通り過ぎると,
電器店頭のカラーテレビ画面が乱れた――電車からの磁力でフォーカスが狂うので.
カラーテレビを買うと設置の向きを決めて微調整をする(地磁気の加減です),と記憶しています.
いつ頃からこんなことがなくなったのでしょうか.


Re『ラジオの歴史』こぼればなしO  投稿者津田

TV放送がはじまったころの製作記事はコイル、トランスがみな自作でとても手が出ません。ただ感心してみているだけでした。ラジオ技術のTV自作者 の座談会のなかで 1B3は高いので自作したという発言があり感心しましたが、藤室さんにお尋ねしたら「1B3を作ったのではなく 12AのPを頭に引き出した球」とのことでした。7インチTVは垂直発振、出力が6SN7でしたが、出力は無理だったようで、ラジオ屋でもらった6SN7は全部片方がエミ減でした。


Re:幕間・『ラジオの歴史』(こぼればなしOの後)  投稿者宮岡


高橋雄造 様 何時も興味深く拝読しています。

カラーブラウン管の[ シャドーマスク ]が 
設置の移動等で地磁気により磁化されるために
AC100Vの交流を利用した道具[ 消磁器 ]が使われました。

「 記憶が定かでありませんが・・・ 」。
1970年以前の
真空管時代の後半には、T社は回路を一部ハイブリッド化し[サーマルリレー方式]の消磁回路を採用しました。
1976年頃にはH社が押釦型の[ 消磁スイッチ ]を設けています。

その後、特許等の関係もあり各社の方式もバラツキが在りましたが1980年以後はソリッドサーキット化し、
AC回路の入口にサーミスタを使った[自動消磁回路]が組込まれ、電源スイッチのON時に消磁されました。
磁化が酷い時は[自動消磁]が効かない場合もあり、消磁器は手放せません。
尚、SONYのトリニトロン方式も消磁回路が必要です。
( 村田製作所 THP-601・THP-651 使用 )

「 消磁器 」
初期(1963年)の頃は、手作りの直径30cmのリング状で、その後は
既製品の長さ25cmの角型棒状を使用しました。



『ラジオの歴史』こぼればなしP  投稿者高橋雄造

 宮岡さん,カラーブラウンの消磁器・消磁回路についてご教示ありがとうございます.
小生の記憶・知識は中途半端で,お詫びとともにお礼申し上げます.

 ラジオ技術・テレビ技術の学校,ラジオ技術の通信教育といったことも調べました.
戦後のこの種の学校全体で,推定で総計20万人前後のテレビ修理技術者が養成されました.
ある大手のテレビ技術学校では,年度卒業生数が3千人に達した年もありました.
 ラジオ・テレビ技術学校が繁栄したのは,受信機・受像機には故障が付きものだったからです.
ラジオ・テレビが故障したら,買った店に修理を頼む,電器店はラジオ・テレビ修理業でした.
戦前にラジオ商のためのJOAK技術者資格試験がありました.
戦後には通商産業省認定によるテレビジョン受信機修理技術検定試験があり,街の電器店にはテレビ修理技術者が必要でした.
テレビ修理ができれば”メシが食えた”.それでテレビ技術学校へ行く,というわけです.
 セットメーカーのうちで松下電器は,テレビキットを大量につくり,社員
たちに組み立てさせました.テレビ修理業はセットメーカーの系列になっていて,また,
松下のテレビは他社とちがう300mA真空管を使うフィリップス式回路であったので,
同社は自前で系列の修理会社の技術者を訓練する必要があったのでしょう.社内にテレビ技術学校を設けたメーカーもありました.
 戦前期のラジオ技術の学校は,大井脩三の東京ラジオ技術講習所”(神田三崎町.富士製作所の富田潤二もここで学んだ)など,がありました.
大井は戦後には池袋の東京テレビ技術専門学校の校長を務めました.新宿・大久保に日本高等テレビ技術学校がありました.
名古屋のテレビ学校についても,調べました.
 これらの学校は各種学校です.実技を身につけさせ資格試験に合格させるための学校であり,
生徒と就職口のニーズをキャッチすべく,教える分野や校名を自在に変えます.
テレビ学校がマルチメディア学校や自動車技術学校になったり,です.
中央線の電車に乗って新宿・大久保を通り過ぎるたびに,校の看板を見て,ああ今はこういう名前なのだな,と思います.
ラジオ・テレビ学校がその後に大学になったところもあります.この種の学校の経営者・教員は,”ぬるま湯” の大学とちがって,
毎日の努力が大変でしょう.“自分だったら,つとまるかな?”と,小生は思ったものです.
これらの学校に通った方やその先生たちの経験談を聞くことができれば,ありがたい. 
 日本高等テレビ技術学校には,石橋俊夫さんが晩年に務めていました.NHK技研で石橋さんは,TVK(テレビ部品技術研究会)を指導しました.
氏は“日本のテレビ受像機の父”と呼ぶべき大功労者です.NHK関係でテレビ受像機関係の実質は全部石橋さんがやったにちがいありませんが,
いつも三熊文雄氏の名が石橋さんの上にありました.これも組織の論理か.石橋さんは,NHK技研退職後にはM社に入りました.
テレビ受像機に力を入れた同社なのに,氏は然るべきポストにつきませんでした.所詮,“外様”だったということでしょうか.
 東京テレビ技術専門学校(池袋)の校長を務めた方にも,インタビューしました.東北大卒,もうお歳でもあり,古武士のような風格の方でした.
次のような話を聞きました.電子機器のIC化・モジュール化が進み,その解析や修理が困難になりました.
先生の元・教え子が方々のメーカーにいて,ICやモジュールの内部について情報を流してくれる,これが大変役立ったそうです.
また,大メーカーにとって他社の機器内部の解析が難しくて手に負えない場合,街のベテラン技術者に頼む,ということもあったでしょう.
経験を積んだ技術者の力を借りるわけで,実力では彼らは大メーカーの社員技術者よりずっと上です.
 学校にとって中興の原動力になった校長がオーナー理事長に疎まれた例もあります.
某大手テレビ技術学校の校史を見ると,見事に元校長の名が消されています.
ソ連共産党公認のロシア革命史におけるトロツキーと同じでしょうか.
各種学校は家族経営みたいなもので,理事長独裁です.各種学校は日進月歩の技術と社会の変化に応じて看板も内容も変えていかねばなりませんが,
これを先導できる人物が理事長一家にいるわけではありません.そこで専門家を迎えます.学校が繁栄してくると,
”もし彼が反乱を起こしたら”と心配になる.パージする.これを繰り返して,有能なスタッフを追放する.
残ったのは忠実に数十年つとめくれて,繁栄の原動力となった現校長です.
彼は本当に大丈夫なのだろうか,仮面をかぶっている,叛乱の機会を待っているのかもしれない.
ナンバーツーが背いたらすべてが崩壊する.造反の気配は毛ほどもない.だからこそ怪しい.
疑念は募るばかり.先手を打って追放! すべては,人間の業,諸行無常です.


消磁器  投稿者嶋村

懐かしい。
私も散髪屋のバリカンみたいな雰囲気のを持ってました。
カラーTVの色合いがおかしくなった時、これを持ち出して、色がおかしい所を中心にぐるぐる回しながら、
2〜3mまで下がるのですが、タイミングを間違うと、別の所が変な色になって。(慣れると、簡単だったんですが。)
ただ、誰しも持ってるものではなかったので、色がおかしくなったテレビをこれで修理してあげると、ずいぶん喜ばれました。
子供さんがいる家では、なんか、ブリキのロボットを近づけたかなんか聞いたことがありますが、ブリキで影響なないはずなんですが、
先入観ですかね?
ま、”そうですか、すぐ直りますよ!”って、大げさにぐるぐるやって、ほら、治った!って、やってました。(笑)


Re:『ラジオの歴史』こぼればなしP  投稿者岩渕

おはようございます

テレ修、懐かしいですね
私も家電屋時代、修理依頼時の肩書が付くとかで取得しました。結構難しい問題だったと思います
その後、家電製品が発達するにつれてテレビなどの電子機器と冷蔵庫などの白物家電とに分かれ
専門の修理資格ができテレ修取得者は無試験で家庭用電子機器修理技術者証が与えられました。この
資格は今の優良自動車免許証と同じく5年毎の更新講習があり修了試験に合格しなければなりま
せん、私は1度目は更新しましたがその後家電屋を辞め電子機器製造会社に勤めたため更新を
受けませんでした。家電屋時代は他に電話機の販売が一般家電店で出来る様になったのでアナログ
2種なども取得しました(1度目の更新時はVTRやCDプレーヤーが登場した時期でデジタル家電の
創生期でアナログ時代の終了を感じました)

何れの資格もアナログ時代の資格で現在では意味を持ちませんが青年時代の思い出になっています


テレビ修理技術師  投稿者嶋村

そう言えば、昔、テレビ修理技術師を受けに行ったなあと、思ってみてみたら出てきた。
高校生の頃の話、NHKの何とかとか、アマ無線、こういった技術的ライセンスを受けに行ったら、
その日は学校を休んでも、出席になるというのがあって、よこしまな考えで受けに行きました。
実際、当時はテレビ修理も遊びでやっていたので、すんなりいただきました。
その後、カラーテレビもLSIの時代になって、色味のおかしいテレビを修理しようと
カラーコンバーゼンス基板を取り出すと、何とそこには、漢字で”色”とだけ書かれたICが。
このころから、メーカーの部品を取り寄せない限り、修理できなくなってきました。
自動車もそうだったんですが、ソレックスの時代(キャブレター)までは追従しましたが、
EFIエンジンになり、マイナスドライバーの微妙な感覚で調整していたテクニックが
全く役に立たなくなりました。
そうやって、テレビから、車からと、遠ざかっていきました。





消磁気  投稿者津田

カラーTVのCRTの外辺に0.5mm程度の線がすう100回巻いてありました。
電源を入れた時acを流して消磁したと思います。この銅線は外してトランスまきに使いましたが、いつのまにかアルミに代わりました

テレビ技術専門学校  投稿者三好 

皆さん、お早うございます。
私も、掲題の学校へ短期間ですが行きました。一応6か月で終了と言う事で授業を受けました。
定年まで勤めた前の会社へ居る頃だったです。
特に残業もなかったのでラジオ以上にテレビも覚えてやろうと言う好奇心と欲望から学校の門を叩きました。若かったのですね。
教える先生方の中にはメーカーの方、有名大学の方、NHKと思しき方等、恐らく、その方達はアルバイトでいらっしゃていた様ですが授業の方は、
中々充実していたと思います。
特にメーカーの方の部品開発時のこぼれ話や、NHKと思しき方のイメージオルシコンのレンズの製作方法等、我々の考える範囲を超えていました。
私に取っては、乾いた砂が水を吸い込む様な有意義な6か月でした。
最後の組立と調整は、私のグループには外にラジオの組立は余りした事がない人ばかりと見えて結局、私の独演会の様になりました。
セットは14吋のフォーカライザーの付いたセットでB電源もトランスと整流管の付いたものでした。
フォーカスも、後の静電フォーカスに比べ、ピントの合致する点では静電フォーカスに勝っていたと私は思っています。
その中で授業を受けた方で数人程、各メーカーのサービス部門へ就職した様です。
私も丁度その頃、定年まで勤めた職場へ転職しました。
テレビ修理技術士の試験は転職した職場が忙しかったのと未だ新入りなので休暇が取りにくく行きませんでした。
後に、問題と回答を見ましたが合格できたのでは・・と勝手に思っています。結局、受験はしませんでした。
しかし、公私ともに、経験者と言う事で修理する機会も結構ありました。




『ラジオの歴史』こぼればなしQ  投稿者高橋雄造

 テレビ技術資格試験・資格証の経験談と画像の情報,ありがとうございます.これら証書は貴重な一次史料です.ぜひ大事に保存されますよう.
 ”こぼればなし”は何度も見直して投稿しているのですが,誤字脱字等々が残っています.後日,全部をまとめる時に直すつもりです.

 ”ラジオ教育研究所”の通信教育については,力を入れて取材しました(下記拙稿があります).戦後,ラジオ受信機は故障したものばかりで,
生産・供給は不十分,故障修理しても直してくれるところがない.そこでラジオ自作と故障修理の技術が求められました.
結核でサナトリウムに入っている人が,ラジオ修理ができるので患者仲間や看護婦さんに(お医者さんにも)モテたそうです.
こういうニーズは,都会だけでなく地方まで,全国で大きかった.
そこで,受信機技術・故障修理の通信教育や前述のラジオ技術学校が盛んだったのです.
『ラジオ科学』の柴田寛も,ラジオ技術の通信教育事業をしました.
 学生がラジオや電気器具の修理アルバイトのクラブを作った(東大第二工学部の”電気相談部”)こともあった.
(電気ではありませんが,小生の学生時代にはふすま張りや謄写版印刷のガリ切りといったアルバイトもあった.
今から見ると,貧しくて健全な時代だったでしょうか.)
 小生がこれら通信教育・学校に関心を持ったのは,日本に電気技術者は何人ぐらいいたのか知りたかったからです.
文部省統計によって推定すると,
戦後・1998年までの大学・工業高校ほか電気の学校・学科の卒業生数(通信教育やラジオ・テレビ技術学校の年間修了者は含まない)は
累計で約3.2百万人,1966年〜1998年には毎年7万人以上です.これは,大きな数字です.
1997年には,同世代(20歳人口とする)男性の24人につき1人が電気技術者として教育されたと推定されます.
こういった人々は.市民・社会の科学技術リテラシー・電気リテラシーというべきものに役立っているにちがいありません.
これも,社会における我々”電気屋”の存在理由です.
 戦前・戦後のラジオ・テレビ技術学校ほか各種学校や通信教育は,”正規の”学校教育ではなく,
社会教育の一部です(博物館も社会教育に属します).これらで学んでも”学歴” にはならないので,
とかく一般社会で”低く”見られる――”永続教育”とか”生涯教育”とかキレイな言葉で呼ばれるようになったのは,近年のことです.
文部省関係の方に教えられたのですが,戦前の文部省では社会教育担当部局は傍流ではなく主流であったそうです.
ホワイ? ずばり,“皇民教育”のためです.これは,進学率に関係しています.戦前に旧制中学(男子の場合)に進学できる者は少数で,
一種のエリ−トであり,現在の大学進学者より“上”だったでしょう(中学を出ていれば,どこでも“ちゃんとした人”と見られたのです).
とすると,残りの多数の人々をどこで教化する? ・・・国民統御・皇民化のためには学校教育だけでは不十分で,
社会教育の方が重要であった,ということです.
 戦前の通信教育の方式は講義録頒布風だったのですが,
戦後,米占領軍の指導(強制? 担当はネルソン大尉)によって”社会通信教育”として面目を一新しました(ガイドブックを導入する,など).
戦前・戦中の通信教育の歴史を調べているうちに,当時の文部省お役人が熱心にこれに取り組んでいたと気付きました.
その時はちょっと不思議に思いました.上記文部省の方の言で腑に落ちました.
戦後の通信教育の隆盛,これは”ポツダム通信教育”であったとしても,
また,戦前・戦中からの文部省の努力のたまものであったのです.
 今の後期高齢者のさらにお母さん世代の多くが,編み物や染め物,洋裁等々
の通信教育のお世話になりました.きれいな色の毛糸がない,染料が手に入らない,植物や花を摘んで来て,また
,紅茶で糸を染めたものです(小生の母も).女性対象だけでなく,ペン習字,トレース等々,いろいろな通信教育があり,
新聞の広告欄にいっぱいでした.いまでも,校正の通信教育などの新聞広告を見ることがあります.
 ラジオ技術の通信教育からラジオ屋・電器店等へと,プロになった人もいました.ラジオ工房掲示板の皆さんにも,
ラジオ技術ほかの通信教育のお世話になった方がいるでしょうか.当時の思い出など,ききたいものです.
 ラジオ教育研究所の通信教育は,のち,電子技術教育協会・電子文化研究所と改称して行うようになりました.
同時に,数十種目の通信教育をそれぞれ別個の社名でやっていました.
”ニューデザイン教育協会” といったような名ですが,連絡先・所在地はどれも同一です.
業界の様態ですね.新宿区大京町の本部に,五十棲吉巳という方を訪ねました.
当初は”畑違いの若造が何をしに来た?”という感じでしたが,ラジオ教育研究所についていろいろくわしいことを教えてくれました.
社史のような『文部省認定社会教育実勢団体財団法人ラジオ教育研究所通信教育30年の歩み』の校正刷を見せていただきました.
これは,結局は刊行されなかったらしい.ここで聞いた話も含めて,ラジオ教育研究所の諸人物像は大変に面白い.
当時の文部省のようすも知ることになり,勉強になりました.

- ”戦後のラジオ・エレクトロニクス技術通信教育の歴史――ラジオ教育研究所の通信教育”,
『科学技術史』(日本科学技術史学会),5号,2001年,41-96頁.


『ラジオの歴史』こぼればなしQ  投稿者PDC加藤

ラジオ教育研究所の通信教育を「初歩のラジオ」の広告で知って受講しました。
1969年、田舎の小学校の6年生のときでした。テキストは6巻+「初等ラジオ
数学」でした。今でも、スキャンして持っています。コイルデータなどが載って
いますので。「故障発見器」という、ネオン管式の検電ドライバーに相当する
ものも付いてきました。

内容は小学生には難しかったです。そもそも字体が古いうえ、「乃至」なんて
読めませんでした。用語も古く、「高声器って何?」といった苦労がありました。
一次方程式さえ習っていませんし。でも、三ペン → 高一 → スーパーと回路図、
部品表、実態図が載っており、結構楽しめました。最後にトランジスタも少し
出てきましたが、2Txxとか2N135とか、初期のタイプでした。

各巻ごとの終わりのほかに、終了テストがありましたが、計算問題が難しくて
さっぱり判りませんでした。しかし翌年、中学一年生になっていたときに終了
テストが新しくなったのか、新たに終了テストの問題が送られてきて、簡単に
なっていたのでなんとかパスすることができました。

近所の友人は最初別の通信教育(入学から卒業までわずか1ヶ月という「東京
電波学会」の通信教育だったかも)を受講したのですが、内容が不満だった
らしく、新たにラジオ教育研究所の方も受講しました。

以上、懐かしい思い出です。


ラジオ教育研究所 RE:『ラジオの歴史』こぼればなしQ  投稿者中島

わたしもPDC加藤さんと同時期(小5でした)にラジオ教育研究所の通信教育を受講しました。
その頃からラジオ作りをしていたので、ラジオ教育研究所の新聞広告を見た母が勧めてくれました。

製作実習の一環として真空管ラジオのキットをラジオ教育研究所が頒布していました。
今にして思えばスターのグローン型と言っていたものでしょうか、並3→高1→5球スーパーと
発展させてゆくmT管ラジオです。購入して組み立てたのですがお金もかかるし、一度からげ配線
したものを組み変えるのは大変で5球スーパーにするのはあきらめました。

教科書各巻ごとのテストには質問用紙もあり、質問を書いて送ると丁寧な回答がもらえました。
真空管のヒーター電圧が6.3Vと中途半端なのはなぜですかなどと質問したことを今でも
覚えています。


ラジオ教育研究所 RE:『ラジオの歴史』こぼればなしQ  投稿者岩渕

おはようございます

「ラジオ教育研究所の通信教育」そういえば私も受講していました(「ネオン管式の検電ドライバー
に相当するものも付いてきました。」で思い出しました。でも私はもらえませんでした)とにかく
難しかったと記憶にあります、今でも数式は苦手で同調回路の数式や説明が何を言っているかも
理解できず、教科書ごとの終了テストも1冊目を送っただけでやめてしまいました。また案内書に
実習用のラジオキットなどが紹介されていましたね、中島さんが作られたと言う並3から5球スー
パーまで段階的に組み立てていくキットに憧れました(その影響で青年期何とかSR-100を入手
しました)またテレビキットも出ていていましたがとても高価で驚きました。でも現物は友人が
通っていた職業訓練校にて文化祭の時展示されていたのを見て感激した記憶があります(その
文化祭で無線クラブが使っていた無線機が50Bラインで当時憧れた影響で昨年無理して入手した
と言う訳です)


Re:『ラジオの歴史』こぼればなしQ  投稿者内尾

お早うございます

小生は 戦後の貧しい時代に育ちました 隣が偶然 ラジオ屋さんだったので、よく見ていました。
(1950年小学6年生)「初歩のラジオ」で勉強したのが実情でしょう。
長男なので 実家の商売を継ぐ気持ちだったのか 商業高校に行く予定でした。
高校受験の時 友人に誘われて 普通高校に行き 流れに従って 大学に行きました。
選んだ先が 趣味が生かされると 通信工学科です。
当時は工学部で電気(強電35人)と通信(弱電15人)で50名の定員、2年後には弱電関連の学科の定員が3倍以上になりました。
恐らく 社会の需要が多くなった時期なのでしょう(1961年卒)。
大学での勉強はあまりしなかったですね、大いに反省しています。
(JA6AYDを開局したりしました 小生の従事者免許で)

ラジオ研究所の書籍は 2〜30年くらい前 神田などで集めています、どこにしまったか不明ですが、とりあえず 見つかった物はこれです。
まだ他に有ります。



幕間・『ラジオの歴史』(こぼればなしQの後)  投稿者高橋雄造

 レスポンス下さった皆さん,ありがとうございます.ラジオ教育研究所(ラ研)の通信教育の受講者にはわずか少数の人しか取材できなかったので,
本当に感謝しております.ラ研は講師も教材も充実していたという印象です.
”乃至”(ないし)ですか! 用語や字が旧いのは,ラ研創立グループのひとり伊佐進が戦中(あるいは終戦直後)
につくった教科書をラ研に流用したからかもしれない. 東京電波学園は,NHK技研の杉本哲が関係したようです.
ラジオ技術の通信教育は流行したので,クオリティ?なものもあったか.杉本さんには,
学生時代にNHK技研を見学したときにお顔を拝見しました.優しい方で,
初歩向けに氏が書いたものはわかりやすくて良かった(学園の経営の才があったとは思われない).
NHK技研といえば,内田秀男氏,三熊文雄氏ほかにもインタビューしました(上の方の人とその他とのちがいがあるように見受けました.
杉本さんや内田さんはその片側に属する). 
 少し前の三好さんの投稿を見て:テレビ技術学校の組立て実習の受像機は,電源トランス付がふつうだったでしょうか.
初心者にいきなりトランスレスをやらせるのは不安です.トランスレスでは600mA・300mA真空管というちがいもありますし.
また,スターのテレビキットの真空管ヒーターは6.3Vでヒータートランス付・Bはトランスレスで倍電圧整流というのも,
全トランスレス方式より扱いやすくて良かったかもしれない.
組立配線中にブロックごとにテストすることができるメリットもあったか(全ヒーターが直列接続ではそうはいかない).
 ハイインピーダンス・アンテナコイルについて:内尾さんの書き込み,拝
読しました,トリオのコイルを設計したのは,まちがいなく春日二郎さんでしょう.


Re.幕間・『ラジオの歴史』(こぼればなしQの後)  投稿者JP1BTB

貴重なお話ありがとうございます。
高校生の頃、杉本哲氏の本を参考に送信機を作ったことがあります。
多分、「初歩のアマチュア無線の研究」だったと思いますが60年も前のことで不確かです。
でも懐かしい思い出です。
氏の本は下記に10冊ほど出ていますが、いずれも存在はしていないようです。
https://honto.jp/netstore/search/au_1000059478.html

アマゾンに「初歩のラジオハンドブック (1962年) − ? 古書」が\20,800で売られています。


Re.幕間・『ラジオの歴史』(こぼればなしQの後)  投稿者内尾

お早うございます

杉本さんの話題が出たので 一言
管理人は杉本さんの本で勉強しました。
最初に購入した本は行くへ不明で 30年くらい前 神田の古書店に通いつめ 色々集めました。
添付画像は 戦後すぐ発行されたものだと思います。
小生が最初に手にしたものは赤い表紙だったと思います。
これもどこかに 有るはずです。

杉本さんは 書籍として発売されたものが多いのですが、内田さんは不思議と記事は見かけるのですが、本は知りません。
内田さんの 奥様には散々お世話になりましたが(感謝しています)、本人は知りません。
お店にも 殆どいなかったと思います。






Re:幕間・ラジオの歴史、こぼれ話の後  投稿者三好 

皆様、今晩は、今日は一日中寒い一日でした。
高橋様、私は関西では余り名の知られていないテレビ学校で講習を受けました。
卒業間際の実習で組み立てたテレビは完全なトランス式で、チューナーや映像中間周波、そして音声回路は偏向回路より抵抗にて電圧を落としていたと記憶しています。
フォーカスも電磁式で並列についていた可変抵抗で電流を調節していました。
それから四十数年後、丁度退職直後、職業安定所へ行った時、パソコンの講習を受けないかと言う掲示板を見て受けて見る事にしました。
講習場所は関西でも有名な、元テレビ学校で、その講習を行っており、私が行った時は、コンピューターのプログラマーの養成をしている学校に代わっていました。
その玄関に、テレビを教えていた時代のセットが飾ってありましたが、やはり完全なトランス式でした。やはり生徒の安全をはかってトランスレスは採用してなかったのですね。
パソコンの講習した時の器機は97でした。ホームページの作り方まで習ったのですが情けないに事にさっぱり覚えておりません。



『ラジオの歴史』こぼればなしR  投稿者高橋雄造

 JP1BTBさんの書込み,拝読しました.杉本さんの著者は,”国立国会図書館サーチ”で検索(著者”杉本哲”とタイトル”ラジオ”)すると,
同図書館や全国の図書館に52件所蔵されているとあります.出版社は,ほとんどが山海堂です.
区立図書館などの公共図書館から申込んで借りられるかもしれません.”インターネットで読める”とあるものもあります.
これらの本はよく売れたようで,杉本さんの人気がうかがわれます(杉本さんの場合も,お書きになったものとご本人に会った印象とはずいぶんちがいました).

 戦前に,ラジオ技術のリーダーとして”スーパーの大井,短波の高瀬”と言われた時期がありました.
大井脩三については前述しました.大井,高瀬芳卿の二人ともラジオ史上で重要な人物ですが,
経歴等の詳細はわかっておらず,小生にとっては伝説の人です.
ラジオ工房掲示板の皆さんから何か教えていただければありがたい.
高瀬は,逓信官吏練習所の技手をしていたベテランで,高瀬無線研究所・東京短波研究所を主宰し,
ラジオ技術の通信教育やラジオ・テレビ技術学校にも関係した人です.南波十三男さんは高瀬氏と親しかったようです.
 ラジオ界で重要な功績者であるのに忘れられたり,正当に評価されていない人は少なくありません.
望月冨ムさんは,その中でも相当に有名になった方です.山梨県の裕福な家に生まれ(山梨には望月姓が多い.
知事の望月氏もいた),東京に来て電機学校で学び,山中無線電機に勤めた後,理化学研究所に入った.
多数の発明をして,退職後に自分の発明研究所を作りました.彼の才能を買ったスポンサーがいたのです.
望月さんのテレビ・インターキャリア特許があったおかげで,
日本のテレビ産業はEMI・RCAという外国の企業に莫大なロイヤリティを払わないですんだのです.
この件は国会でも取り上げられた.彼は日本のテレビ産業にとって大恩人ですが,忘れられた功労者でもあります.
”忘れられた”のは,大企業や官・学に所属しない自前のフリーランサーであったからでしょう.
 逓信省の電気試験所では帝国大学出(東工大も含む)でないと,どんなに業績があがっても”逓信技師”に昇進できず,
”技手”止まりです(大卒でも).電気試験所の佐野昌一(W大卒.SF作家の海野十三.蜆貝介も同一人)は,
こういう位階制がなければSFに手を染めなかったかもしれません.技師と”お手伝い”とではトイレも別という時代もあった.
会社で言えば,職員と工員とのちがいです.理研でも同様であったでしょう.まして大卒ではない電機学校卒では,です(いやな話です).
理化学研究所で志を得なかった望月さんが退職後にフリーランサーの道を選んだのは,自然なことであったか.
裕福な家にまれ,かつ氏の技術に着目した後援者がいて自分の研究所を持てた望月さんは幸せであったと言えるでしょう.
氏は,シャガールの絵のコレクターとして日本では一番であったとのこと.コレクションは神奈川県立美術館に寄贈されました.
氏がシャガールという画家を選んだ心情は,上記のことから推察されます.望月さんは小生に大変親切にして下さり,
研究活動資料の一部など提供して下さいました.望月さんの人と業績について,深く研究して発表するに至らなかったことを申し訳なく思っています.
望月冨ムさんは,いろいろあっても,大成して志を遂げた人と言うことができるでしょ
う.



Re:『ラジオの歴史』こぼればなしR  投稿者倉島

今晩は。
神田の明倫館書店であれば、かなりの書籍を見つけることができます。
ただ、それなりに高価なので、欲しくても躊躇してしまうことが多いです。

内尾さんの「私の宝物」の中に、初歩のラジオ創刊号を探しているとの記載がありましたが、
閲覧はできても入手は難しいですね。『初歩の ラジオ』 の創刊理念とその教育的意義という
柴田徹氏の論文がありましたので紹介します。これは、とても参考になります。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jssvte/28/2/28_KJ00009200035/_article/-char/ja/



Re:『ラジオの歴史』こぼればなしR  投稿者嶋村

倉島さん紹介のサイト...
げ! 英語じゃん!!
TV-7のマニュアル解析で作ったプログラムにいれて。 変換!
なんか、出てきた。
初歩のラジオが、しょほうのラジオ、所保のラジオ、職業ラジオなどに変換されてしまった。

以下、入力英文を少し加工して変換
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『初歩のラジオ』(かつては「ビギナーズラジオ」という副題がついていた)は.主に少年少女(ここでは単に「若者」と呼ぶ)を対象とした日本最古の月刊ラジオ雑誌で.1948年に株式会社誠文堂新光社から創刊されました。
この雑誌はもともと.伝統的なシニアラジオ月刊誌であった『無線と実験』(当時の副題は「ラジオ実験者の雑誌」)と兄弟関係にありました。
本研究は.同時期の兄弟ラジオ月刊誌に掲載されたいくつかの記事内容の分析を通じて.初歩のラジオ創刊号の理念を明らかにし.初歩のラジオ創刊号の理念の教育的意義を論じたものである
『初歩のラジオ』は科学技術出版の伝統という概念的背景から生まれ.日本最古の若者向け月刊ラジオ誌として.若者向けの視点を含み.兄弟月刊誌『無線と実験』の普及も見据えたものでした。
実質的な分析の結果.初歩のラジオは.若者の電気技術の未熟な作業を実際に完了することを奨励する製造に関する記事と.若者が最初から電気技術の知識を習得することを直接奨励する説明的な記事のどちらかが.よりわかりやすいイラストと文章を使用して提供されていたことが判明しました。
月刊誌はエレクトロニクス技術を若者の世代に広めたいと心から願っていたと語った。
そしてそれは.『初歩のラジオ』創刊号のある種の哲学を反映していると考えられます。
『初歩のラジオ』創刊の前年である1947年.日本では教育基本法.学校教育法等が制定され.いわゆる戦後日本の新しい学校となった。
-教育制度や教育実践はすでに始まっていました。
しかし.普遍教育としてのエレクトロニクス技術教育の観点から見ると.当時の小中学校の教育課程は制度的には現在に比べて不十分であり.国民にとってエレクトロニクス技術を学ぶ機会が乏しかったと言わざるを得ません。
若者たちは順調に確保していました。
このような状況において.学校教育の外から定期的に青少年のエレクトロニクス技術の学習の機会を拡大する初歩のラジオは.学習の機会を創出し拡大するという点で決定的に重要な意味を持っていた。
そして前述したように、『初歩のラジオ』は読者である電気技術に未熟な若者に対する基本的に誠実で優しい姿勢を記事内容に盛り込んでいた。
これにより.学習の機会を創出・拡大するという形式的な意味が内容的にも強化されることになります。
したがって.一連の初歩のラジオの内容を歴史的に丹念に研究することは.技術の啓蒙・普及の歴史研究という文脈だけでなく.技術教育の基礎研究の観点からも意義があると思われる

ソース(引用)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jssvte/28/2/28_KJ00009200035/_article/-char/ja/



『ラジオの歴史』こぼればなしS  投稿者高橋雄造

 『初歩のラジオ』関係の柴田徹論文について:研究論文には,学術の国際交流のために英文要約(抄録)をつけるルールがあります.
また,前述したように,次の柴田徹論文があります.
 - ”『初歩のラジオ』の寄稿者たちの経歴とその特質?―雑誌草創期をささえた寄稿者たちはどのような人々だったのか”,
『科学技術史』(日本科学 技術史学会),4号,67-96頁,2000年

 真島拓司氏も,望月さんと共通する点があったように思われます.真島さんは真島宗二とも言い,
氏が1951年に設立した新宿・大久保の日本ラジオ技術学校は,日本高等テレビ技術学校の前身です.
『初等TV教科書』等の著書があります.戦前に,海軍技術研究所の助手をしていました.
新宿近くの参宮橋にあるお宅を訪ねました.ラジオ界の大物であるのに志を得なかった人という印象を受けました.
 地方で神童と呼ばれる子が,ラジオや電気が好きである.家は裕福で,東京へ出す資力は十分ある.
東京のどこの学校に行くか.例えばの話ですが,電機学校(現・東京電機大学)があります.
電気関係では地方でも知られた学校です(ラジオ・電子工業と重電関係に,同校は優れた技術者を多数送り出しました.
中央無線の曽田三郎社長・純夫社長,田山彰さんも電機学校卒です.電気学会会員の学歴では,
電機学校・電機大学関係の人が単独最多数のはずです).で・・・この子が卒業して,非常に優秀なので,
例えば逓信省の電気試験所に入るわけです(以下,日本放送協会の技術研究所,軍の研究所,理研などでも).
日本で最大・最高の国立電気研究所です.学校にとっても大変名誉なことです.
ところが,入ってみると,彼は大学出でないので”お手伝い”扱いです.定年まで勤めても,そのままです.
日進月歩の電気技術において,最先端を拓くような技術・着想は帝大卒でないとできないわけではない.
最高学府の学問は,現在進行中のことではなく定説・古いことを教える.先端分野では,
どこの学校で学んだかではなく,その人の能力と努力によって良い仕事ができます.
こういった状況が彼にもわかってくる.業績を挙げれば挙げるほど,矛盾がひどくなる.彼は新天地を求めて退職する.
しかし,国立研究所という”大樹”の外の浮世にも学歴メカニズムがあり,彼が活躍できる場所は限定されているのです.
 こういった少年(才能のある)は,少なくなかったでしょう.端的に言えば,彼(と親御さん)は行く学校をまちがえたのです.
学力と資力のある彼は大学(帝大でも)に十分行けたことでしょう.どうしてそうしなかったのか.ラジオ・電気にあこがれて,
一日も早く電気専門の学校に入りたかった.電機学校にはこういった少年が集まった.
電気・ラジオ技術はそれほど素晴らしくて魅力的だった(この”時代思潮”は,見逃してはならない点です).
電気・ラジオの実技に早く就きたくて,年月のかかるコースには行きたくなかった.学校選びについて大都市と地方との情報格差が作用した,
とも言えるでしょう.田舎の素封家には,都会・お役所・大会社の学歴差別などの知識がなかったのでしょうか.
今日でもこういった事情があるかもしれません.
 小生がインタビューした/しなかったラジオ技術者に,真島さんほか該当しそうな方が何人もいるはずです.
望月さんは,その中でも結局は成功した人と言えるでしょう.



Re:『ラジオの歴史』こぼればなしS  投稿者増田

はじめまして。
この手の話。科学史というか多分に人間的で(一部週刊誌的で)大変面白いです。

いづれの国、時代も共通するようで、例えば
英国ではマックスエルが師匠と称したファラデーは学歴がなく、一生、王立研究所の研究
所の助手であったとか。かのアインシュタインが尊敬してしたのもファラデーで、高度の数学
知識がなくとも偉業を成し遂げたこと、彼の写真縦をいつも机に置いていたとか。
 かと思えば、アップルの技術的創設者はスティーブン・ウォズニアクですが早々に退
社し、営業面で活躍したスティーブン・ジョブスが大成功するとか。
…(高橋先生もご存知とは思ますが)

 あと、当方の回路シミュレーションはただの無料版Microcapです。RF回路は、コイルの
等価が難しく、インダクタンスに対して付属する損失抵抗分、巻線間容量が実物を本当に
反映しているかです。なので、実体と食い違う場合がありますね。


Re:『ラジオの歴史』こぼればなしS  投稿者内尾

通信教育に関し 土岐重助さんの書籍を見つけました。
初版は 昭和9年発行ですから 相当初期ですね。
本には日本ラジオ通信学校の広告が有ります。
色々な教材が発売されたことが判ります。


土岐 重助さんの”初等ラジオ講義録”


その書籍の裏表紙の広告













『ラジオの歴史』こぼればなし(21)  投稿者高橋雄造

 日本ラジオ通信学校刊行の書籍についての画像(内尾さん)に関連して:『ラジオの歴史』20-21頁に,戦前・戦後のラジオ雑誌を一覧してあります.
 小生の取材が東京圏中心であったのは,自然の成り行きとは言え,残念です.
名古屋のテレビ学校を取材したことかがありました.名古屋の白砂電機(シルバー)の白砂允さんをお訪ねしたことも.
白砂さんのステレオ装置は立派でした.会社のオーナーですからこれは当然で,
三菱6インチ半スピーカーの小生がくらべるのがおかしいのですが.若い時の白砂さんはハンサム・ボーイでした.
ラジオ少年であるが学校で電気技術を学んだことのない人が会社を興して成功する例は多くあり,
白砂さんはその一人です.朝倉昭さんも,でしょうか.
 以下,ポータブルラジオ,トランジスター・ラジオについて. ポータブルラジオ(真空管式)で最大手のシルバーに,
家電トップのM社からOEM生産を依頼してくる.ポータブルラジオ製造工程・ノーハウすべてを見られてしまうことになるので躊躇するのですが,
結局は応諾する.そしてすっかり”持って行かれて”しまうことになりました.こうして,M社自身のポータブルラジオ製造が軌道に乗ります.
ただし,シルバーにとって品質管理ほかMから学ぶところもあった,ということです
 トランジスター・ラジオ関係の調査では,藤田田(デン)さんからの指南を受けました.
氏が有名なやり手であるとは聞いていたのですが,ハンバーガーの氏がトランジスター・ラジオとは?
“藤田さんはトランジスター・ラジオムを輸出したから,くわしいはずだ“と勧めてくれた人がいて,
氏のオフィスを訪ねました.著書が何冊か飾ってあって,これを読んでいないと予備知識不足だと,
いそいでパラパラめくりました.ユダヤ人に学んだ商法とか,なるほど辣腕です.
マクドナルド(ハンバーガー)を日本へ導入した,玩具のトイザラスもそうだとか(トイザラスは当時大変な人気でした.
”Toys are us”です).面談では,はじめのうちは何も知らない若造扱いで(その通り),ダボラ風?が吹きました(予期した通り).
輸出商の氏は,ハワイへ日系人相手に仏壇などを輸出していても商売は大きくならない,方向転換して,
今ではヴィトンが世界中で取引している相手の金額トップがオレだ,ということでした.小生は,ただただ感心するだけ.
そしてトランジスター・ラジオ輸出です.ここからはまことに有用な話をして下さり,
往時のトランジスター・ラジオ業界事情などをいろいろ聞くことができました.
輸出用トランジスター・ラジオは米国人バイヤーに言われて製造を始める”一旗上げる”業者(全くの異業種からの転入)が多かったので,
その跡はもう残っていないことが多い.”これこれのことならどこそこにいる何々氏に訊けばよい”と指南を受け,
その後の調査がずいぶん進みました.コーヒーが出てきて,”客用だから,マクドナルドのコーヒーよりおいしいかな”と思いましたが,
ふつうのコーヒーでした.最後に,マクドナルドの割引券をもらいました.とにかく,デンさんには助けていただき,感謝しています.
大変面白く,有益で印象に残るインタビューでした.藤田氏にまつわる話がたくさんあるのですが,
紹介すると長くなるので割愛します.氏の著書を見てください.
 トランジスター・ラジオについては,おもしろい話がたくさんあります.
輸出検査関係,石炭ガラ輸出事件などなど・・・.下記拙稿にも書きました.
元A社の土井さんにもお世話になりました.米国へトランジスター・ラジオを輸出する船がパナマあたりを通るときに,
高温で電解コンデンサーが劣化したとか.セラミック・コンデンサー調達が間に合わず,容量の大きいコン
デンサーを小さく切って使った! セラミック・コンデンサーが都合よく切れるものかどうか? バイパス用コンデンサーで,
基板に装着するのに静電容量よりも外形寸法が大事だったのでしょう.電解コンデンサーは長野県あたり
で製造された二級品(納入検査でハネられたもの?)を使ったという話も聞きました.とにかく輸出用トランジスター・ラジオは儲かったらしい.

- ”ロックンロールとトランジスタ・ラジオ――日本の電子工業の繁栄をもた らしたもの』”,
『メディア史研究』(メディア史研究会),20号,2006年, 71-87頁.


『ラジオの歴史』こぼればなし(22)  投稿者高橋雄造

 電解コンデンサーは,あらゆる電子部品の中で最も品質が向上して最も成功したもの,と言えるでしょう.出発点が低かったからです.
 戦前から戦後にかけて,電解コンデンサーは劣悪で,材料の純度が低く,パンクがつきものでした.
住友電工でしたか,アルミ箔工場で亜鉛も扱っていて,どうしても亜鉛粉がアルミ箔に付着する.
アルミ・メーカーにとって電解コンデンサー用など小口の需要なので,電解コンデンサー・メーカーの要望など聞いてもらえない.
そこで,いくつものメーカーで”電解蓄電器研究会”をつくった.万国の労働者ではないけれど,団結!です.
この研究会でお互いの工場を見学する(見せあう!)という,ふつうではありえない協働研究をしました.
あのM電器がその音頭を取ったのですから,超特別事例です.
 トランジスター・ラジオが登場して,低電圧・大容量の電解コンデンサーが大量に使われるようになりました.
使用電圧が真空管時代には300V程度であったのが10V以下になったのですから,パンクが減ったのも当然です.
材料純度の向上,電解蓄電器研究会という業界挙げての努力やNHK技研の指導もありました.
 日本ケミコンの創業者佐藤敏雄さんが,『菰の中から』という自伝を書いています.
新潟から上京した氏は,電解コンデンサーを作って,どうやってもうまくいかない.考えながら腕組みして川沿いの道を歩いていたら,
川に転落してしまったそうです.極言すれば,当時の状況ではまともな電解コンデンサーができるはずはなかった.
他の部品とちがって,電解コンデンサー製造は機械加工ではなく化学ですから.知識のある人ならば,電解コンデンサー製造には手を出さなかったでしょう.
直截に言って,佐藤さんは地方出で知識がなかったから電解コンデンサーを作った,うまくいくはずはなかったのです.
佐藤さんは,お姉様が大変な苦労をして下さったおかげで東京へ出てくることができた,と書いています.
(北国の豊かでない農家の若い娘の大変な苦労とは,どういうことでしょう!) これも日本ケミコンのサクセス・ストーリーの一部であり,
日本のラジオ史・電子工業史です. 東北大学の平本厚先生(経済史)と同道して,電解コンデンサー技術の権威である永田伊佐也さんを訪ねたことがあります.
これは,大変勉強になりました.” 伊佐也さんはキリスト教徒ですか(イザヤですか)”と尋ねたところ,肯定されました.

 フォスターの市川さんからうかがったスピーカ−の話.日本製のハイファイ・スピーカーは著しく良くなったが,
欧米製に比べて音に個性がない(たしかにTANNOYなどはよく鳴りますね.好みに合わない人もいるでしょうが).
戦前期以来,ラジオ業界はすべて舶来崇拝であったので,スピーカーもひたすら真似であった.
ステレオ時代になって日本のスピーカーも良い音を出すようになったのだが,海外の著名スピーカーを聴いては自社スピーカー
を試作するので,どうしても”似ている匂い”が残ってしまう.それでも,次第に個性を持つようになってきた.
 試聴室には体調を整えて入るのであるが,大変に疲れる仕事だとのこと.
 スピーカーの決め手は,コーン紙と接着剤だそうです.接着剤は,今は良いものがいろいろあります.
現在でも接着工程はシンガポールの工場で見たように手作業でやるのでしょうか?
 コーン紙用パルプは選び抜いて,北欧のどの山のどの斜面のどの方角の〇〇杉,という具合だそうです.
超高級ワイン用ブドウの栽培と同じですね. Fostexの10cmスピーカーは良い音がするし,箱が小さくすむので,いくつも使用しました.

 トランス(変圧器類)は,だれが作っても同じようなものができる,作り方も材料もわかっている.トランスを購入する会社も,
トランスのコストを知っている.つまり,独自の技術というものが存在しない部品である.
それゆえ,新会社が参入しやすい.価格競争になる,買い叩かれる.そして倒産する,
別な会社が入ってくる・・・春日二郎さんからうかがった話です. 当今の真空管回路用のトランスはバカ高い.
こんな高いものをなぜ買わなきゃならんのだ!と思うが,仕方がない.
並四・高一クラスの電源トランス(B巻線が半波40mAであっても,シリコン・ダイオードでブリッジ整流にすれば60mA位はOKのはず.
整流菅用のヒーター巻線も空くので利用できる)を買ってストックしておくべきだった.ヒータートランスや,
7kΩ位の出力トランス(替コイルだけでも)も・・・後悔先に立たず.


『ラジオの歴史』こぼればなし (23)  投稿者高橋雄造

 ラジオ・無線と政治・プロパガンダ・情報活動というと,ムズカシイ話題でしょうか.これがラジオの本来の社会的機能なのですが・・・.
日本のラジオは,米国の場合とちがって政府管轄下に始まったことがその性格を規定しています.
 まず,南米の有線電信から.南米の小説を読むと,電信の話が出てきます.
広大な密林と原野になぜ電信線が? 内戦・匪賊討伐・軍隊派遣などに必要だったのです.
 無線では,同じ南米で,RCA社とバナナの話があります.RCAとバナナ,ホワイ? RCAは,設立時には無線機器製造ではなく通信業務の会社でした.
RCA社を共同設立した3者のうち,一つがユナイテッド・フルーツ社(現チキータ)です.
南米北部のベネズエラのオリノコ川流域で,同社は大規模なバナナのプランテーションをやっていました.
バナナの輸送,出荷,熟成,収穫などの連絡のために無線を使ったのです.
バナナはナマモノですし,有線電信では中継局が入るので即時通信というわけにはいかず,
途絶の心配があって復旧には日数がかかります.無線が好都合であり,これを必要としたのでしょう.
これが,“RCAとバナナ”のわけです.
 日本では“玉音放送”・“玉音盤”の人気が衰えません.日露戦争・日本海海戦・信濃丸の無線電信というトピックもあります.
 録音関係では,ナチス・ドイツ時代のテープレコーダーがありました.ヒトラーの演説を録音したテープは各地の放送局に急送され,
演説が放送されました.米軍はヒトラーの居場所を突き止めて爆撃しようとしていたのです
が,方々から彼の演説が放送されるので場所を特定できなかった,という話です.当時,
米国ではテープレコーダーは実用化されていなかったのです.
 S氏と米占領軍による無線傍受業務の話を”こぼればなし”Kに書きました. 冷戦時代の短波放送ジャミング合戦を記憶している方もいるでしょう.
FENで英会話の勉強をした人もいました.FENも宣伝戦略(謀略放送)の一つです.
 ゾルゲ事件のクラウゼンの無線送信機を復元した方がいます.日本ラジオ博物館の岡部匡伸さんです.
立派な研究だと思います.送信機は,その都度組み立てて使用後にバラすというもので,
終段管プレートには交流をそのまま印加する簡易な回路で(50/60Hzで変調されたA2電波になる),
なかなか考えた設計です.
 ゾルゲ事件等に関連して,各国駐在の大使館の無線通信設備がどんなものであったか,興味があります.
国際有線電信はベルリン―東京,モスクワ−東京ほか,どれも必ず途中のどこかでイギリスの海底電信線を経由する.
秘密保持など不可能です.大使館には無線通信が不可欠であったはずです.
これを調べる,大使館内の無線室の位置・間取り,送信機・受信機,アンテナ,電源,スタッフ,操作方法,操作時刻などなど.
もちろん暗号や,人間が通話したのかどうかも.さて,研究はどこから始めたらよいか,
ちょっと考えても関係する資料・情報の断片も思い当たりません.これはおもしろくて非常に重要な研究トピックであると思います.
いまの小生にはこれに取り組む時間・力がありません.若い研究者どなたかがいませんでしょうか.
 駐在公館の無線室というトピックは,日本の在外公館だけに限りません.
たとえば日本駐在のイギリス大使館の無線室です.第二次大戦期の日本駐在イギリス大使館の無線室の概要は,
日本の諜報機関が多少とも把握していたはずです.この諜報の記録を発掘することが可能でしょうか? ・・・赤坂にある米大使館の無線室は,
などと言おうものなら,即,CIAに襲われるかな.くわばら,くわばら,君子危うきに近寄らず.
 某大学の危機管理学部教授で元・防衛庁,専門はインテリジェンス(諜報)
という人が『ラジオの歴史』を見たのか,出版社の社員(法政大学出版局ではない)を介して小生に近づこうとしたことがありました.
これもアブナイでしょうか.
 スパイ関係で,秋葉原のジャンク屋が関係した事件もありました.ソ連の諜報員が米軍基地からジャンクを仕入れているジャンク屋に接触して,
米軍の電子兵器の情報を得ようとしたのです.日本の兵器産業も,米軍の制式機器が何に決まりそうか情報を得ようと,
ジャンク屋に接近して同じようなことをやっていました.



『ラジオの歴史』こぼればなし(24)  投稿者高橋雄造

 名古屋・中京は,トランジスター・ラジオやトランシーバーなど米国向け輸出電子機器の中小企業があって,
その基地の様相がありました.これらの会社・工場は,ブームを当て込んでの”一旗組”です.
米国バイヤーの求めに応じたり,OEM生産など.名の通っていて歴史のある会社ではない.
機動的で,ブームが過ぎると撤退し転業する.それゆえ歴史・記憶に残りにくいのですが,
こういった会社・工場が日本の電子工業の成功と日本の繁栄の原動力の一部であったのです.
このあたりを実証研究する研究者が出てくることを期待したい.東京と大阪だけじゃない,
電子工業に関しては名古屋を調べないといけません!
 トランジスター・ラジオだけでなく,輸出用トランシーバーもとにかく儲かったらしい.
名古屋でなく東京の人ですが,トランシーバーで儲かって儲かって,銀座で豪遊したといいます.
米国でトランシーバーが売れたのは,長距離トラックが,警察の取り締まり情報の交換など,
相互の連絡に使ったからだそうです.
 白砂電機(シルバー)の創業者白砂允さんは電気の知識は独学で,名古屋で知られたラジオ少年でした.
島田聡少年も,広島の電機商のあいだで有名でした.島田さんは東京に来て秋葉原を見て,
”なんだ,この程度か”と思ったそうです.
名古屋や広島のこういった往時のラジオ店感覚を調べて分かるならば,面白いと思います.
 大阪で戦前にスピーカーの有力メーカーであった戸根源(戸根無線),その元オーナー戸根康夫さんを訪ねました.
電子工業・ラジオ工業を調べたいという文系大学院生と同道して,大阪に行きました.
このN君と駅で落ち合ったら,茶髪です.“茶髪ですね”と言ったら,きのう染めたとのこと.相手は
高齢の人なのだから,昨日でなくインタビュー後に染めればよいのに,と思いました.
今とちがって,茶髪が白眼視された時代です.幸い,戸根さんは彼を見ても変な顔をされませんでした.
N君は電子工業・ラジオ工業史の立派な研究をして,今は大学の先生です.氏の著作について,後述します.
 戦後の北九州や広島の電機・電子工業の歴史も知りたいと思います.朝鮮戦争で日本は米軍の兵站基地となり,
敗戦からの復興を果たしました.朝鮮特需です.朝鮮半島に近い北九州・下関や,
軍都であった広島(大本営が置かれた時もあった)・呉の工場は,米軍の通信・電子機器の補修を行ったと推定されます.
その過程で,米国の進んだ技術を学び習得した.戦争の需要・要請ですから,タダで技術を教えてもらったようなものです.
これが日本の電子工業の発展と日本の経済高度成長の基盤を準備した.広島の島田聡少年の背景に,このような事情があったと思われます.
北九州・広島などの米軍電気・電子特需を調査・発掘してくれる研究者はいないでしょうか――
北九州や広島の大学院生でも.ラジオ工房掲示板の皆さんには,経験や見聞をお持ちの方はいらっしゃらないでしょうか(年齢からして今はもう無理か?).
 米軍無線機器の部品技術について.中間周波トランスのアルミ深絞りのケースは,戦前の日本ではできなかったと聞きました.
日本軍航空機搭載の機器の重量増加となったか.日米の技術の差は大きかった.
他方,米軍のウォーキートーキー(トランシーバー)のmT菅ソケットはウェーハー型だったように記憶しています.
振動等を考えると,モールド型であるべきか.数十年後の眼には,米軍の部品も,案外,安手に見えるところがあります.

『ラジオの歴史』こぼればなし?(25)  投稿者高橋雄造 

 PDC加藤さんの書込み,拝読しました.子どものときにこういった物をもらうと,宝物です.
小生も,知り合いのお兄さん(大学生)から古い真空管(UX222など)をもらいました.今まで保存しておけばよかった.
222は,初期のスクリーングリッド四極管で,24Bの前身でしょうか.プレートがイボイボのメッシュ状,銀色に光っていました.

 書き残りの一つ:ラジオ・テレビだけでなく電子部品の調査研究には,工業会・学協会などの公的機関の方々にもずいぶんお世話になりました.
テレビ受像機キットの詳しい生産統計を見せてもらった,など.学協会の事務局OBの方々からのご教示は,大変役立ちました.
日本電子工業会(EIAJ.現電子情報技術産業協会/JEITA)には,理事会の議事録がズラッと並んでいました.
貴重な史料ですが,先行き廃棄になるだろうなと思いました.保存すべきです,しかし小生の力ではどうにもなりませんでした.

 もう一つ,インタビューに会社の人同席の例:創業社長にインタビューした際に,
“勉強になることだからキミもそこで聴いていたまえ”と言われて社員が陪席したようなこともあったかと思います.
これは,発言監視のお目付社員同席とはちがいます.
 シャープのテレビ受像機開発陣の服部正夫さんに会ったときは,インタビュー場所の喫茶店までシャープ社員が来ました.
これは,ご本人がパーキンソン病で身体の動作が定かでなく,その介添え役で同席したものです.
”国産最初”の受像機を発売した早川電機(シャープ)では,副社長格の笹尾三郎が受像機開発のリーダーで,
受像機の出張修理には自らも行ったとのこと.修理は視聴者のお宅へ上がって奥さんに会い,
床の間のようなところに設置してあるテレビに触るのですから,同社の出張修理要員には毎朝,服装,靴,ハンカチまで笹尾さん自らが検査したそうです.
受像機開発だけでなく修理サービスにも力を注いだ早川電機は,メーカー別受像機年間生産台数が1957年までトップでした(テレビ放送開始は1953年).
小生のインタビューには,亡くなった笹尾さんの代わりに,部下であった服部さんが体の不調を押して出てきて下さったのです.
シャープがそのテレビ開発の歴史を非常に大事にしていることがよくわかりました.前述の発言監視の会社とはちがいます.
 修理ネットワークの整備は.受像機メーカーにとって非常に重要でした.
松下電器は,他メーカーとちがって300mA真空管方式であったので,自前で修理サービスマンを養成することがとくに必要であったでしょう.
また,ある会社のテレビは感度が良いので,地方までよく売れた.そのため遠隔地にサービスマンを派遣しなければならず,
会社にとって重い負担であったとのこと.



『ラジオの歴史』こぼればなし(26) 投稿者高橋雄造

 ?へ追加です.
 コネクター類も,質量ともに著しく向上・成長した部品分野です.コネクターや,プラグ,ジャック,レセプタクル,
ソケット類の静止接触部品の用途・種類,使用される場所・業界は千差万別で,
これらを算え上げると大変な数になるでしょう.身近なものと言えば,USBコネクターやイヤホンプラグがあります.
 戦後期までの丸形コネクターは,アチャラものを真似して作ったのでしょ
うが,のどかなものでした.製造会社によって寸法が少しちがって,一見全く同じなのにはまらなかったり・・・
.その後,欧米の有力会社や各国それぞれの規格のものを日本でも作るようになり,
各種・多数のコネクター品目が共存しました.
 放送・録音関係等々の業界によってコネクターの種類も異なりました.たとえば,スタジオ関係では踏んづけても壊れない金属プラグとか.
デスクトップのパソコンやディスプレーの電源コードコネクターは,必要以上にごつい(扱いにくいだけでなく,意外と外れやすくて信頼できない.
あんなに太いキャブタイヤコードは必要ない.)これは,パソコンが家庭用でなく業務用であった時代のなごりでしょう.
 コネクターは,あらゆる家電品に使われています.半導体時代になって,
基板・モジュール・操作パネル等をつなぐコネクターが,多端子(10とか20とか)のものまで,使われるようになりました.
1台のPCに,一体いくつのコネクターが使われているでしょう! コネクターのメーカーは,大儲けで急成長したでしょう.
 コネクターは,静止接点です.一度はめたら,そのまま外さずに使う(スタジオ関係ではしょっちゅう着脱するが).
リレーのような動接点は,開閉のたびに接触面が削られ蒸発して” 新しく”なるので,接触は確実です(そのかわり,
接点金属は消耗する).静止接点はそうはいかない.
静止接点でも,比較的に高電圧・大電流のものは,電位差による火花・溶着があって,導通は確保される.
半導体回路の小電圧・微小電流の多端子コネクターで導通不良が起きないのは,不思議なくらいです.
それだけ品質が改善されたのです.
静止状態で長い月日のうちに,空気中のガスが接点金属と反応して接点表面に非導電性被膜ができることがあります.
コネクターを密閉というほどではなくても囲っておくのが,対策として有効でしょう(パソコン筐体だけでも効果はあるでしょう).
 リレーのような動接点では,接点の融着・蒸発・消耗が問題です.パソコンの内部で,電磁リレーがしょっちゅう動作しているような,小さい音がし
ます.リレーの劣化・消耗はおきないのでしょうか? リレーの場合も,カバーケースで覆うのが,劣化防止に役立つようです.
 話は少々ちがいますが,コネクター類が複数ついている機器からプラグをはずすとき,
どのプラグを先にはずすべきか,まちがえると事故・故障につながることがあります(オーディオでピー・ギャー音を出すと,
スピーカーが飛びます).端子がペアで2つある場合は,つなぐときはコールド(アース)側端子が先,外すときはホットが先,これは常識です.
このルールになるように作ってあるコネクターもあります.
 (コネクター等の着脱は機器パワースイッチ・オフで行う.これももちろん常識.ところが,何事にも例外があるので,
小生が研究したEMC/EM障害の場合,”電源オン”(動作状態)での方が安全というケースがあります.
これは電源オフではシリコン半導体回路の各所が絶縁状態なので,外部から侵入した異常電圧がアースに落ちない.
オンであればアースへの導通路がたくさんあって,異常電圧が入力側の半導体ゲートまで行きにくく,比較的安全です.
”電源スイッチ・オフだから安全”とはかぎらないのです.EMC/EMI専門家の多くがこれをわかっているかどうか?)
 宇宙衛星ほか兵器・工業用機器にもコネクターが使われます.特注して高信頼性コネクターを作らせる.
ところが,一般用の量産品のコネクターの方が品質が安定していて信頼できる.
名人の作ったものよりも量産品が上というわけです.値段もずっと安い.こういうことをやるのが日本の強みです.
(米国等の軍・極地探検隊の装備にファスナー(ジッパー)が多数使われますが,
ほどほどの用途には何とか国製,肝心な部分には日本のYKK・・・という話を聞いたことがあります.
日本製品の信頼性伝説です.) コネクターのメーカーには,数社,取材しました.
これらの会社は,のどかコネクターの時代から現在の半導体・デジタル時代まで,技術の革新をこ
なし,あるいは先導してきました.小生は勉強させていただきながら,この過程を深く研究するに至りませんでした.
関係各社・各氏にお礼とお詫びを申し上げます.
 小生の大学の恩師(教授)は,電気接点の専門家でした.小生は,”門前の小僧”の知識で以上を書きました.
正しい解説をその道のベテランが書いて下さるとありがたく思います.(研究室で金接点の実験研究を助手にやらせたら,
ストックしておいた金だかパラジウムをあらかた飛ばして(蒸発させて)しまった.先生は渋い顔をなさった・・・とか.)


Re:『ラジオの歴史』こぼればなし(26)  投稿者岩渕

こんばんは

今回の接点のお話、高校の時の担任(電気科の先生です)の話を思い出しました。
強電専門の方だったと思うのですが当時10万V送電に挑戦されていた方を恩師に持たれたそうで、
その方は毎日、来る日も来る日も接点磨きにいそしんでおられたそうです、
どんなに平坦に磨いても接点は3点でしか接触していないとの事で送電の開閉器の接点をいかに損失なく繋ぐかを研究されていたそうです

そういえば半導体でも同じような事を見ました。
NHK「電子立国日本」で戦後トランジスターの研究でトランジスターを作るのに今の様なカッターが無いので
改造グラインダーで5mm厚に切った単結晶ゲルマニュームを0.5mm厚までひたすら紙やすりで削ったと言う話です
1人2時間位両手10本の指を使い8人がかりで何日もやすりがけしたと言う話です、
『ラジオの歴史』こぼればなしにも書かれていますが日本の電子技術の発展は努力と体力のたまものだそうです
(電卓開発も動作テストに60度の高温室や氷点下の冷凍室で行われ汗まみれ、体力勝負のテストだったと報じていました)

ご覧になりたい方は下記YouTubeチャンネルでご覧になれます、私は「8mm角のコンピュー
ター」が懐かしく思って見ていました。
https://www.youtube.com/@hideyukiishida804/videos


『ラジオの歴史』こぼればなし(27)(最終回)  投稿者高橋雄造

 まだまだ書きたいことがありますが,少々堅い話で”こぼればなし”を締めくくります.
 『ラジオの歴史』を書くようになった動機:一つは自分がラジオ少年であったからです.
小生程度のラジオ少年がラジオの歴史を書くなんておこがましいのですが,書きたかった.
”テレビ受像機開発における自作ファンの貢献という事蹟が埋もれてしまうのは非常に残念だ”と語った石橋俊夫さんの表情,
それが強烈な印象となったからでもあります.小著『ラジオの歴史』は,主観と感情移入があるので,
歴史書としては落第でしょうか.たとえ落第であるとしても,
”あ,僕はここにいたんだ”と元ラジオ少年の読者に思ってもらえればうれしい.
 もう一つは,ラジオ技術者を含む電気技術者の社会におけるステータスを高めたいからです.
諸外国では”エンジニア”と言えば社会で尊重される.日本ではどの会社(大会社)に勤めていると言わないと通用しない.
”ミチビシです”とか,”タク(良人)は〇芝ざあます”といった具合で,”電気技術者です”とは言わない.
また,初任給も,小生が大学を卒業したころですが,電機産業は化学の会社などに比べて2〜3割低かった(今はどうでしょうか?).
電線メーカーに入った同級生は高給でした,電線は株式の分類では電機でなく金属ですから.電気技術者自身のあいだでも,
社への帰属意識が優先し,電気技術者としての仲間感・連帯感は薄い.
電気技術者が社会を支えているという自負も弱い(専門職のproffesionalizationという歴史学の眼で見ると,
電気技術者はprofessionではない.)その結果,社会では誰も”電気技術が社会を支えている”などとは言わず,電気技術者の給料は低い.
小生は,電気技術者がどのように仕事をしてきたかの歴史を書くことがこの状況を変えるのに役立つ,と考えました.
 電気技術・電気技術者の歴史を自分で書くだけでなく,文科系の科学技術史家や経済史家・経営史家に書いてもらう,
そのために史料を集めて提供する.日本の技術史というと繊維産業や造船等は書かれていますが,
電気関係は少ない.あっても電気事業(電力事業)などで,電子技術関係は稀です.
繊維や造船,電気事業の技術はともかく,電子技術は文科系の研究者にとって難解なので敬遠されるのでしょう.
そこで,文科系の先生に電気・電子技術を伝授して――それこそ個人教授をする――電気技術史・電気工業史を先生のライフワークにしてもらうのです.
 このようにして始めた努力の結果か,何人かの先生にこの分野の歴史を書いてもらえるようになりました.
まず,東北大学経済学部の平本厚教授です.
インタビューに平本先生と同道したことが何回もあります.氏は,テレビ受像機工場を見学しているうちに,
ブラウン管用偏向コイル(鞍型で,”コサイン二乗巻き”とか言っていた)の巻き方を覚えてしまったというのですから,
何というか,エキスパートです.小生は電気屋でも,偏向コイルの巻き方なんかわからない.平本先生の主著は,次の通りです.
 - 『日本のテレビ産業?―競争優位の構造』,ミネルヴァ書房,1994年
 - ” 「並四球」の成立 (1) 戦前日本のラジオ技術革新”,『科学技術史』(日
  本科学技術史学会),8号,2005年,1-29頁
 - ” 「並四球」の成立 (2) 戦前日本のラジオ技術革新”,同上,9号,2006
  年,1-36頁
 - 『戦前日本のエレクトロニクス――: ラジオ産業のダイナミクス』,ミネ
  ルヴァ書房,2010年
 - 『日本におけるイノベーション・システムとしての共同研究開発はいか
  に生まれたか――組織間連携の歴史分析』,ミネルヴァ書房,2014年
 - “高度成長期電解コンデンサ産業と中堅企業の形成”,『経済学』(東北大学
  研究年報),Vol. 80, No. 1,2024年,19-41頁
ナミヨンについて論文を書く先生が世界中のどこにいます? ありがたいことです.上記の電解コンデンサー論文は,大変な力作です.
こういう偉い学者と少しでも交流できた,小生は,まことに畏れ多いというか,幸せです.
(なお,電解コンデンサーについては?でもふれました.)
 南山大学のN中島裕喜教授は,平本先生より若く,トランジスター・ラジオ輸出の歴史については第一人者です.
中島先生の著作は以下:
 - ”トランジスタラジオ輸出の展開?―産業形成期における中小零細企業の
  役割を中心に“,東洋大学経営論集,79号,2012年,73-94頁
 - 『日本の電子部品産業?―国際競争優位を生み出したもの』,名古屋大学
  出版会,2019年
 - ” 京セラの電子部品事業史とその周辺?―1980 年代までの動向を中心
  に”,『稲盛和夫研究』(稲盛和夫研究会),2号,2023年,21-39頁
 日本の電子工業の歴史については,平本・中島両先生の著作が基本文献です.平本先生,中島先生に,心からお礼申し上げます.
さらに,先生方のお弟子さんたちが電気技術史・電気工業史を研究して下さるよう期待します.
平本先生がエレクトロニクス技術の微細まで理解された,そのプロセスがお弟子さんたちに継承されることでしょう.
ラジオ工房掲示板の皆さんにも,こういった研究者の助けになることがあったら(史料提供,技術細部をていねいに説明など)ご協力をお願いいたします.

 最後に:長々と書いてご迷惑だったかとも思います.内尾さん,故・曽田さん,皆さんにお礼とお詫びを申し上げます.
『ラジオの歴史』の取材・刊行でお世話になった方々すべてに,心から感謝いたします.
 もう一言.『ラジオの歴史』には図・写真多数があり,ラジオ工房掲示板の皆さんの記憶をよみがえらせて楽しんでいただけると存じます.
図版をたくさん収録できたのは,法政大学出版局の秋田公士さんのおかげです.
この意味で『ラジオの歴史』は同氏の作品です.秋田さんに心からお礼申し上げます.











続き


2024/03/28 (Thu) 09:14:43_11896429

そのまたこぼれ話  投稿者高橋雄造

 こぼればなしにしっぽをつけるなんて,みっともないのですがお許し下さ
い.多数回の”こぼればなし”は,まとめて一つにして,内尾さんに送るつも
りです.その際に,多少の補正・配置替えなどいたします.今回のしっぽも,
関連個所に追加して配置します.

 ?の米国製機器のmT管ソケットに関連して:ウェーファー・ソケットの
方がモールド・ソケットよりもmT管が割れにくいという理由があったのか
もしれません.太い線で配線するとmT管挿入時にクラックが入る,線をハ
ンダ付けするときにはボケ球を挿しておいて行う,といったことが1950年
代にありました.その後,タマもソケットも改善されて,良くなった(ミツ
ミのソケットが決定版になったか).

 書込みして下さった津田さんは,小生がお世話になった三重県の津田さん
でしょうか.『ラジオの歴史』執筆にあたっては,貴資料とご教示が大変役立
ちました.お礼申し上げます.

 小生は,残念ながら,テレビキットは作りませんでした.藤沢市に住んだ
伯父の家のテレビは,近所の電気屋が組んだスターのキットでした.真空管
ヒーターはトランスで,B電源はセレン倍電圧整流です.トランスレスで全
真空管ヒーター直列というのは,作業に厄介です(作業中にはブラウン管だ
けヒータートランスを使うとよいか).ラジオ商には,スターのセミ・トラン
スレスが好ましかったのでしょう,スターのテレビキットは全国各地によく
売れたようです.このあたり,スターの佐藤俊の手腕でしょう.それだけに,
テレビキットへの加重課税は佐藤俊にとって大打撃だったはずです.
 小生の家の最初のテレビは,東芝製でした.トランス式です.プロ野球大
毎オリオンズが西本監督で優勝した後であったか.野球を見るのは4チャン
ネルですが,他チャンネルは良いのにここだけうつりが悪い.チューナーの
設計が悪かったのだと思います.大和電気のフジ・チューナー(6RHH2,
6MHH3使用)です.アルプスのチューナーの誤設計(前述)に由来するか?
大和電気は,当時流行の品質管理(QC)でも知られた会社でした.東芝も
大和もイ?カゲンなものだ,当時の少年の感想です.

 赤塚不二夫の《天才バカボン》でバカボンとパパがテレビを修理すること
を,『ラジオの歴史』に書きました.秋本治の《こち亀》には短波ラジオが出
てきます.スカイセンサー5900や,クーガー2200.両さん巡査がラジオマ
ニアとは!『週刊少年ジャンプ』2012年5月28日号です.

 ラジオと文芸で,ラジオのキライな人の話.永井荷風は”ラディオ”や”蓄音
機の流行歌(はやりうた)” の音が大嫌いでした,とくに夏場には窓を開け
放しにしてラジオをかける家が多く,”亀裂(ひび)の入(い)ったような鋭
い物音”に堪えきれず(口実でしょうか)自宅を離れて,向島・寺島町・玉の
井の私娼窟(滝田ゆうの漫画にある)へ出かけるのでした.当時の再生式受
信機はピー・ギャーと発振するし,ひどい音であった.これには,荷風が日
本放送協会のプロパガンダ放送を嫌悪したからだ,という解釈もあります.
いやいや,そんな理屈よりも,荷風は江戸文化に憧れて,その江戸の町には
”ラディオ”の音がなかっただけのことでしょう.荷風は太平洋戦争中の”大本
営発表”ラジオも嫌ったか.終戦時の”玉音放送”を荷風はどう聴いたでしょう
か(荷風自身は何か書き遺しているでしょうか?).



2024/03/28 (Thu) 10:27:05_11896438

Re:そのまたこぼれ話  投稿者岩渕

こんにちは

>小生の家の最初のテレビは,東芝製でした

我が家の最初のテレビも東芝製でした。四角い木製キャビネットに4本足が付いた物で間借り
住まいでしたので屋外アンテナは建てられずウサギの耳アンテナでした。田舎なので映る局も
少なくNHKと民放1局のみです、以前にも投稿しましたが余裕のある同級生の家では5素子
5段アンテナを屋外に設置して東京方面の放送を見ていたので話題に付いていけませんでした。
その頃からラジオよりテレビに興味があったので高校生の時は近くの電気屋さん店先に廃棄さ
れた真空管式テレビを貰ってきて真空管を抜きっとったりニコイチで修復してみていました。
(本格的な知識は無いので修理ではなく、ぶっつけ作業のニコイチ修復です)


2024/03/28 (Thu) 17:47:02_11896468

ラジオの歴史  投稿者津田

高橋先生、らじおの歴史の2級マークの球の図をお送りした津田です。体がすっかり弱りましたが内尾さんの掲示版は見ております。先生の追加版は大変参考になりました。

2024/03/28 (Thu) 20:21:41_11896481

ドラマ 万博の太陽  投稿者

1970年に万博が開催されましたが、
テレビに蝶々型のアンテナが置いてあり
都会なのかなと。それはいいのですが
並三(並四)ラジオが置いてあり時代錯誤では。
マニアならいざ知らず。この年代ならトランスレススーパーが
一般的では?


2024/03/28 (Thu) 21:01:13_11896484

Re:そのまたこぼれ話  投稿者内尾

今晩は

小生が最初に作ったのは 昭和34年の夏休みくらいでした。
明確に記憶は有りませんが 多分14T-185と思います、3万円強で買えました。
トランス式でしたね、13年前までは 残骸が 実家に有りました。
父が亡くなると 倉庫も整理されてしまいました。








思い出話  投稿者嶋村

今から10年以上前かと思いますが、PICが世の中に出始め、
CPUが100円前後で買えるようになっていた頃の話です。

ネットで、PICの記事を探していると、8PinのCPUで、
LEDを15個制御して、星の一筆書きをするものが、
回路図、ソースプログラムとも公開されていました。
足が8本、電源で2本使うので、ポートとして使えるのは6ピン。
外部にICを使えばどうという事は無いが、その方は、なんと、
CPUとLEDだけで見事に15個のLEDを制御していました。
プログラムを見て、なるほどと感心したものです。

そんなある日、出張で東京へ。
夜の暇つぶしに、ポケットサイズのトランシーバーC601を持っていきました。
築地のホテルで、1200を聞きながら、夕食を食べていると、サーチにかかったQSOの内容が、601から流れてきます。話題は、その15LEDの星の話でした。
私も知っている話題なので、のんびり聞いていると、話が”動作しない”という方向に向かっています。
QSOしている2人の話を聞いていると、全部の部品を秋月で揃え、組み立てて、
何度も回路を確認したが動かないという話。
そう、気が付いた方も多いと思いますが、PICは買ってきても、プログラムを書き込まないと、動作しません。
教えてあげようにも、こちらはC601で、本体付属のアンテナ。
届くはずもなく、そのままになりました。

私のWebサイトの記事も、PIC使用のカウンターなど、回路を公開していますが、PICに書き込む必要がある旨書いていましたが、
この度、CPU式のLED-12個のマジックアイで、同じ質問が来てしまいました。
本来は、6E5DPICの書き込みサービスはしていなかったのですが、
全部完成させて、通電したら、動かないとのことで、特別に、書き込みサービス、
明日発送ですが、ネットで記事公開する際は、自分がわかっていても、読む方には、分らない話もあるんだ!と、あらためて認識しました。
もしかしたら、他にも、作ったけど動かなかったと思って、あきらめた方がいるのかもしれないと思うと、少々申しわけない気分です。



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百万人の電気技術史  高橋 雄造著

 

目次の主要部分





radiokobo-all




##########################################################




























下記の文章は高橋先生 直筆の文章をそのまま掲載したものです。
現時点 視力が衰えて 細かな確認が出来ません 現在の漢字に機械的に自動変更されたままです、
体裁 文字ホントなぢ その点ご容赦ください
                                                  ラジオ工房管理人  内尾
                                                  2024年4月25日




『ラジオの歴史』こぼればなし(まとめ)

 

 小著『ラジオの歴史――工作の〈文化〉と電子工業のあゆみ』,法政大学出版局,2011 に関連して,内尾悟さんのラジオ工房掲示板に『ラジオの歴史』こぼればなしと題して2023104日・1114日から2024328日にかけて30数回書込みをしました.本稿はそれを一つにまとめたものです.

この“まとめ”作成にあたって,誤記訂正などの補正,多少の追加と配置替えなどをいたしました.談話スタイルの“こぼればなし”ゆえ,同じ事項や同じ人名が飛び飛びに出てきます.パソコンで検索をかけて下さると,容易に見つかると思います.

多数回のこぼればなしに対して,多くの方々からラジオ工房掲示板にレスポンス書込みをいただきました.その全部はこのまとめには反映されていません.この点,各位のご理解をいただきたく存じます.

こぼればなしはラジオ工作ファン対象で書かれていますが,それ以外の方にも参考になるかと存じます.専門用語・ジャーゴン(真空管の型番ほか)にも解説をつけませんので,一般の方にはわかりにくいところがあるでしょう.その場合,スキップして読んでいただければと思います.

 

 

I

 

 こぼればなし執筆のきっかけ:富士製作所/スターが掲示板で話題になっていて,こぼればなしを書き始めました.また,JA8IRQさんからの書込み(2013121日)も,執筆の動機につながりました.JA8IRQさんが小著336頁の電力技術者は会社に帰属し,電子技術者は電子技術に帰属するを読んで下さっこと,著者として大変うれしく思います.少年が自己(個.アイデンティティ)を確立するのにラジオ技術が資する,ということです.

 『ラジオの歴史』刊行後,『ラジオの歴史』余話“といったものをラジオ雑誌に書く機会があるかと思ったのですが,全く声がかかりませんでした.そこで,今回,ラジオ工房掲示板へのこぼればなしになりました.ほとんど記憶だけで綴りますし,不正確な点もあるかと思います.小生の誤解(インタビューで聞いたホラ話を真に受けるとか)もあるでしょう.ラジオ工房掲示板は商業出版物ではないので自由に書けると思いますが,失礼にあたる表現も不用意に出るかもしれません.このあたり,なにとぞご容赦・御寛恕をお願いします.

 

富士製作所/スター社は日本におけるラジオ工業草創期以来の古株で,戦後はラジオコイルの最大手メーカーでした.テレビキットさらにテレビ受像機完成品などのセットメーカーとして成長し,東京証券取引所第二部に上場するまでになりましたが,のち,破綻しました.

『ラジオの歴史』では,富士製作所/スターについて力を入れて取材・調査したつもりですが,不十分な点が残っています.富士製作所/スターという会社の来歴・変遷に関して,オーナー佐藤俊さんの御令息である佐藤冨哉さんにインタビューしました.スター終末期(倒産)のいきさつも重要な事項でしたが,率直に質問しにくいという事情もあり――あれこれほじくり返すと思われる――大事な情報源がシャットダウンになるのは避けるという状態でした.相手に失礼な質問はしないというのが,取材のルールに違いありません(インタビューされる人の性格にもよるでしょうか).倒産・整理された会社について当事者から正確なことを訊き出すのは,困難です.(なるべく,対象者と親しい人からの紹介をもらって行くようにするのですが――どこかの馬の骨が何か訊いてきたと思われないように.) 清算をした弁護士である鎌田理次郎という人(小著161頁の図61参照)にもインタビューしました.佐藤家の財産は佐藤俊氏に残した,と言っていました.小生は管財・清算といったことの基礎知識は持たず,情報の裏を取ることもしませんでした.肝心の佐藤俊さんにもアクセスを試み,一度は氏から電話をもらったのですが,面談には至りませんでした.業界に君臨したボスの同氏にとって下り坂の経緯を話すインタビューなど,実現するはずがありませんでした.

佐藤冨哉氏は,FUJIGrownといったブランド名でコイル等を販売したようです.富士製作所(STAR)時代からの学校教材のラジオキット販売も,引き継いだようです.ST管の並三(6C6, 6ZP1,12F)で紙フレームのマグネチック・スピーカを使っていたものを,同氏からプレゼントされました.小生が佐藤冨哉氏を訪ねた家は,三田の日立社近くであったように思います.

スター対トリオのコイル・メーカーのもう一方の横綱の春日二郎さん(トリオ)には何度もインタビューし,いろいろ教えていただきました.小生が不用意な発言をして一喝食らったこともあります(それで小生は春日さんが大好きになりました).佐藤俊さんに比べて春日さんは成功者と言えるでしょうが,それでも春日無線工業/トリオ/ケンウッドを出ることになったなど,バラ色の成功続きであったわけではありません.

さて,ラジオ工房掲示板で話題になっている八重洲無線FL-50B原型の設計者は,田山彰さんでしょうか.氏は6U835極管)が好きだったようです.自分はラジオファンというよりも音楽(レコード)ファンであった,とおっしゃっていました.年配になって仕事の忙しさから解放されたらゆっくりレコードを聴ける,と心待ちにしていたのだそうですが,その前に耳が老化してクラシック音楽が楽しめなくなってしまったと嘆いておられました.田山さんは万事きちんとした方で,この業界には珍しい人であったかもしれません.伊豆にあるお宅に伺った(東北大学の平本厚先生と一緒であった)ことも思い出します.猫がたくさんいて,強い匂いでした.

 

 『ラジオの歴史』刊行について:はじめ,老舗ラジオ雑誌の編集長に貴社から出版してもらえないかと頼んだのですが,高橋さんの書くものはちっともおもしろくないからと断られました.のち友人の紹介で法政大学出版局から刊行することができ,大変ラッキーであったと思います.

拙著も刊行から10年以上たち,いまはそれ自体が歴史上のひとこまになりました.ラジオ少年の秋葉原も,現在は歩いて楽しいところではなくなりました.さらに再開発が行われるようです.実感を持って拙著を読んで下さる方々も,もういなくなるでしょう(ラジオ工房掲示板の皆さん以外は).この本をパラパラとめくって見て,図版多数を入れて本当に良かったと感じます.法政大学出版局の秋田公士さんのおかげで,感謝しております.

 

 

II

 

 赤箱のスターと緑のトリオの続きです.ラジオ工業最初期からのスターとちがい,トリオは戦後派です.トリオの春日二郎さんは長野県駒ヶ根の出身です.軍で無線技術を習得されたようです.伊那谷の山間の駒ケ根では電波事情が悪いのでラジオコイルの改良に努めた,とおっしゃっていました.巡回技術指導に長野県に来たNHKの人が春日さん自作のQメーターを見て,びっくり感心したそうです.春日さんの技術力です.一面で春日さん(二郎さんと呼ばれていたようです)は文人で,歌人であり,カメラの趣味人でした(ラジオ界で多趣味――クルマ,自家用機操縦などなど――というと田口達也さんほかもいました).話が会社の技術陣に及んだとき,春日さんは,しっかりした技術者が社に一人いれば他は並の技術者でよいのだ,とおっしゃいました.トリオでは俺がそれだと言う意味になるわけで,傲岸な発言にも聞こえます.しかし,ラジオ雑誌上の氏の発言を読むと,すべて技術の確かな根拠に基づいていることが感じられます.やはり春日さんは抜群の存在でした.東京・大田区雪ヶ谷の春日無線工業の部屋はハンダ鏝の匂いと技術者たちの熱気でいっぱいだった――これは春日さん逝去後の春日令嬢による回想です.春日さんのリーダーシップです.春日さんは日本オーディオ協会の幹部であり,トリオ社は“トライアンプ”を発売しました.小生はこのアンプの修理をしたことがあります.よく合理的に(節約して)作るものだ,さすが儲かる会社は,と感心!しました.春日さんは自社の製品すべてに満足していたかどうか? のちに氏がトリオ/ケンウッド社を出てアキュフェーズ(日本一高品質のオーディオ・メーカー)を始めたのにも,こんなことが関係したかもしれません.

春日さん退社のいきさつ:春日無線工業は二郎さんと実兄・義兄の3人で始めたので,トリオと称しました.のち,東京に進出しました.米国にも拠点を持ち,ブランドをKenwoodとして,二郎さんが米国に駐在しました.創業者3人のなかで経営方針の意見が合わず,二郎さんが独立してアキュフェーズを設立,ケンウッドの技術陣何人もがついて行ったそうです.以上,不正確な点があるかもしれません.トリオ関係の方が正して下されば幸いです.

ところで,スターとトリオの人気投票をしたら,どんな結果になるでしょうか.小生は,最初に買ったコイル(並)以来ずっと,コイル類はほとんどスターでした.

ハイインピーダンス・アンテナコイルについて:内尾さんの書き込を拝読しました,トリオのコイルを設計したのは,春日二郎さんにちがいありません.

 

 

III

 

 富士製作所/スターでは,ながらく富田潤二さんが技師長格であったと思われます.富田氏は,大井脩三のラジオ技術講習所(東京・神田三崎町)で学びました.技術といい教養といい,富田さんを春日さんと比較するのは酷でしょう.その技術陣を使って成功したところに佐藤俊氏の腕がある,とも言えるでしょう.

 スターの中間周波トランスはC同調,トリオの方はμ同調でした.このあたりにも,両社の技術力・先見性のちがいが見て取れます。

田山彰さんが短期間ながらスターの技術部長でした(1960年入社).氏はワンマン社長佐藤俊の部下ですから,春日二郎さんのように自由に腕を振るうことはできなかったでしょう.佐藤さんは技術の詳しいことはオーディオ関係の友人に電話をかけて相談していた,とのことです(後出する池田圭,永田秀一あたりでしょう).

田山さんについて追加:氏には,回想 日本のラジオ・セット(I)(II)(III)”と題して,山中無線電機時代ほか詳しく書いていただきました(『電気学会研究会資料』,HEE-00-15, HEE-01-12, HEE-01-242000年,2001年).どれも参考になる資料と思いますが,電気学会自体に保存されているかどうか? その(I)では戦前の各種ラジオ部品についての記述があります.田山さんは中央無線で,軍放出のリッツ線を使って中間周波トランスを作り,性能を向上させました.

 戦後の富士製作所の躍進はまことにサクセス・ストーリーで,佐藤俊氏のリーダーシップの賜物であったと言えるでしょう.富士製作所は,バリコン・メーカーの片岡電気(アルプス)と三開社(サンエス),ダイヤルの東洋電気(トーヨー)らとスターラインというグループを結成し,スーパーヘテロダイン受信機の高周波部品(コイル,バリコン,中間周波トランス,ダイヤル)の全国規格統一実現(1952年)に寄与しました.吉永電機(バリコンのメーカー),春日無線(コイル.トリオ)らの日本CLD協会と,可変抵抗器・バリコンの福島電機(コスモス)ら関西メーカーのCVD協会も,スターラインと同様の貢献をしました.これは,日本のラジオ工業史における部品メーカーの最大の功績といってよいでしょう.1961年に東京証券取引所第二部が開設され,富士製作所もこれに上場を果たし,社名をスターに改めました.オーディオに乗り出そうと池田圭や永田秀一と関係を持ったようすが,『ラジオの歴史』,100-101頁の図55(写真)に見られます.佐藤俊の絶頂期です.スターは第二のソニーとも呼ばれました.

 

 佐藤俊さんについて,もう少し.戦後,東京にラジオ関係メーカーの共同組合が設立され,佐藤氏が組合長を務めていました.熱海で組合の納会か新年会があり,宴席で佐藤氏がスピーチしている時に小林稔さん(ペーパーコンデンサー等のメーカー小林電機製作所/チェリーの社長)らが別室で麻雀を始めたのだそうです.そこへ佐藤氏が乗り込んで,“オレの話が聞けないのか”と怒って雀卓をひっくり返した.これを根に持った小林氏がのちに組合長になり,そのときスターが左前になり,組合からつなぎの融資があれば生き延びるというところを小林氏が許さず,スターが倒産した,という話です.以上のように聞いた記憶ですが,あるいは佐藤氏と小林氏と立場が逆であったかもしれません.両氏とも,日本生産性本部派遣・米国招待で日本電子工業訪米視察団(1957年.団長はパイオニア松本望社長)のメンバーでしたか

ら,業界ででした.

テレビキットへの課税問題で各地の電気商が窮地におちいり,青森あたりから上京した店主たちがスター社へ詰めかけたとき,佐藤俊氏は一室へ隠れて出てこなかったと言います.飛ぶ鳥を落とす勢いであった氏も小心者であったというエピソードですが,こんなことは普通で自然だと小生は思います.

 トリオとテレビキット:春日無線もテレビキット製造に乗り出し,宣伝ま

で開始しましたが,発売寸前に撤退しました.テレビキットの流行に乗ろうとしたのを断念したのは,英断であったと言えるでしょう.

 

 

IV

 

 富士製作所/スター関係の続きです.ラジオの歴史と言うからには,富士製作所,春日無線/トリオ,浜地常康,苫米地貢・伊藤賢治・『無線と実験』あたりはメイン・トピックスで.力を入れて調べました.はじめは小生も,富士製作所は富士電機や富士通と関係があるのかしらんといった程度の認識でした.創業者佐藤祐次郎(佐藤俊の父君)が静岡県興津出身であるので富士商店とし,これが富士製作所になったのであり,富士電機・富士通とは無関係です.戦後にスター測器(スタァ)というのがありましたが,京都の会社であったか,これも別物でしょう.

佐藤祐次郎は,浜地常康の東京発明研究所の設立に関与しました.さらに,苫米地貢(伊藤賢治,古沢匡一郎とともに『無線と実験』の創始者)の衆立無線研究所の試作課長になりました.苫米地が東京中央放送局入りしたのち,衆立無線研究所は佐藤が引き継ぎました(富士商店に吸収された).このように,佐藤は早くから斯界の主流にいたわけです.

富士商店の所在地は,

  東京市芝区田村町四番地(JOAK通り) 電話 芝(432260 振替

19401

でした.衆立無線研究所の所在地(1928年)は,

  東京市芝区田村町三 電話 芝一三四〇番

とあります(『ラジオの歴史』78頁,図17).

富士商店のブランド名は” SRL”でした.Short Wave Radio Laboratoryの略でしょうか.部品等のほか,測定器が富士商店の主力製品でした.軍用製造の関係から,東京・深川の米問屋木村徳兵衛と協力して,富士測定器(のちスイッチ等のフジソク社になった)を設立しました.海軍技術研究所・電気試験所の幹部である高原大佐や木村六郎(木村徳兵衛の叔父)がこれに関与したなど,時流に乗っていたさまがあります.

 なお,こぼればなしAでふれた写真(『ラジオの歴史』,100-101頁の図55)にあるスターの幹部・宮島和三郎は,木村徳兵衛商店から来た人です).

 米国の対日輸出禁止措置をかいくぐって,信号発生器(シグナル・ジェネレーター)を急ぎ米国から運び,深川あたりに陸揚げした,これをやったのが軍と関係のある木村六郎であったとか,聞いた記憶があります.佐藤祐次郎や木村徳兵衛も関係していたことでしょう.

 佐藤祐次郎氏がどんな人であったか,わずかしか調べられなかったのが残念です.氏は相当なやり手であったと思われますが,2代目の俊氏は甘い(守りに弱い)ところがあったようです.乳母日傘で育ったからという評も聞きました.

佐藤一族と富士製作所は日本のラジオ史上で非常に重要な存在です.くわしくは下記拙稿を見て下さい. 研究論文ですから読みやすくないかもしれませんが,興味を持っていただければ幸いです.戦後の日本のラジオ・テレビ・オーディオ工作の文化は,百花繚乱でした.拙稿はその一部分を書き留めたにすぎません.こういった記憶もやがて消えていくのでしょう.

 

- ”電子工業史における中小企業の足跡――I)富士製作所(STAR)とラジ

オ工業,『科学技術史』(日本科学技術史学会),1号,1997年,45-80頁.

- ”電子工業史における中小企業の足跡――II)富士製作所(STAR)とテレ

工業,同,2号,1998年,53-83頁.

 

 

V

 

スイープ・ジェネレーターについての書き込みがあったので:スイープ・ジェネレーターを作っていたリーダー(大松電気)の大松繁さんにも,インタビューしました.研究測定用の高級品でなく工場で使えるような測定器を作っている,ということでした.小生も,同社のオシロスコープとテストオシレーターを持っていました.大松さんは,会社が左前のとき質屋に行ったことを話して下さいました.質屋には行ったことがなかったので,ずいぶんためらった(質屋の暖簾をなかなかくぐれなかった)とか.

 

浜地常康,苫米地貢,伊藤賢治といったところは,ラジオ初期(ラヂオといった)の大立物です.下記拙稿と,『無線と実験』(20015月号,6月号,ラジオ雑誌の時代)に書きました.前掲拙稿電子工業史における中小企業の足跡――I)富士製作所(STAR)とラジオ工業にもあります.

苫米地は功労者ですが,山師のようなと言われたりして,ことさら低く評価されたようです.彼は衆立無線研究所を設立し,一統を引き連れ機材を担いで全国を行脚し,ラヂオ(無線電話)普及の啓蒙デモ講演をしました.伊勢神宮の御師のような活動でしょうか.起業家精神では伊藤の方がスケールが大きく,米国シカゴで知識を仕入れた甥(弟?)の茨木悟を呼び戻して,受信機・部品や雑誌だけでなく放送局までつくろうと計画しました.これも一種の山師ですかネ.

苫米地貢は,浜地の東京発明研究所と『ラヂオ』にも協力しました.東京発明研究所には,古沢匡一郎や佐藤祐次郎を連れて参加したようです.

苫米地は,衆立無線研究所というネーミングから見ても壮士風で,算盤がはじける商売人ではなかったようです.『無線と実験』という誌名にラヂオでなく無線を使ったのは,苫米地の主張によるものであったと伝えられます.ラジオは無線電話(不特定聴取者向けのパブリック・アドレスでなく,特定スポット・スポット間の通信)から分立したものであり,苫米地はその伝統に固執したわけです.

『無線と実験』創立グループの一人で赤門ラヂオ商会を興した伊藤は,日本のラジオ史上の功労者です.その伊藤が同誌をあっさりと小川菊松(誠文堂)に渡してしまい,商売は小川の方がずっとうわ手でした.伊藤はX線・電気治療畑の人で,雑誌よりも電気治療器の方に関心が向いていたのでしょう.小川は,『無線と実験』を商業誌として成功させました.同誌では,古沢匡一郎編集長(苫米地の衆立無線研究所の副大将格であった)の貢献が大きかった.小川が古沢をうまく使った,ということでしょう.

伊藤氏は起業家としては大会社を作ることにはならず,電気治療器の会社を業としました.これに成功した伊藤賢治氏は電気治療に宗教色を加味して,自分の御真影(写真)を信者に拝ませました(『無線と実験』誌上の独白).小生が会ったのは令孫で,東京・練馬区で伊藤超短波という電気治療器店をやっておられました.こちらの伊藤さんには.大物風・カリスマといったことは感じられませんでした.

茨木さんの三田無線(DELICA)について.小生は,ラジオ雑誌や『CQ』掲載のDELICA測定器の広告を見て,そのラインアップの豊富なことに驚きました.パノラミック・アダプターまであるのです.金欠の少年には,もちろんどれも高嶺の花でした.後年,DELICAのディップメーター(トランジスター化されたもの)を買いました.ところが,ダイヤルをただ回すだけでメーター表示が上下する(発振強度が均一でない)のです.春日二郎さんにこの話をしたら,コイルのボビンが細くQが低いので自己共振があるのか,とおっしゃいました.6AK5三結発振の自作品の方がずっと良かった(144

MHz送信機の調整にも使った.6AK5は電極が小さいので,三結で超再生受信機にも好適です.6AF4Aあたりも良いか).

 

ついでに超再生受信機について.プロレタリア・ラジオ少年の小生は,50MHz受信機もFM放送受信機も超再生でした.3A5のトランシーバーも作りました.超再生受信機(ウルトラオージオン回路)では細部の接続にいろいろなバリアントがあります.試行錯誤した結果,次のようにするのが良いとわかりました.コイルのタップは中点,グリッド・コンデンサーはセラミックの50pF50MHzの場合),グリッドリーク抵抗は5MΩで,その他端は真空管のプレートに接続する.チョークコイルは,断線したガラス管フューズにエナメル線を巻いて,共振をグリッドディップメーターで受信帯域(たとえば50MHz)に合わせる.低周波トランスのかわりにスピ−カー用の出力トランス(二次巻線は開放,コンデンサー・カプリングでオーディオを取り出す)でよい.

その後,小遣いを貯めてFMチューナーを作りました.フロントエンドとAFC12AT72本です.組み上げて電源スイッチをいれたら,いきなり美しい音楽が流れました.たまたまバリコンの位置が送信周波数に合っていたのです.あんなにうれしかったことはない.大学入試に失敗して浪人中のことでした.

 

 - ”浜地常康の『ラヂオ』から『無線と実験』へ,『科学技術史』(日本科
  学技術史学会),11号,2010年,1-36頁.

 

 

VI

 

 今回は浜地常康です.彼の『ラヂオ』は日本で最初のラジオ雑誌であり,ハマチヴァルヴは最初の国産真空管といってもよいような存在です.電波知識の啓蒙雑誌ではなく,ラジオ自作ファンのための雑誌を始めたのは浜地です.

過去の歴史を調べるについては,すでに知っている知識の断片から入ることになります.このような知識のない事項についての研究は粗くなりがちであり,心して取り組まなければなりません.ラジオ・雑誌で言えば,『無線と実験』は現存しているので,そこからたどって行けばよい.伊藤賢治の名前と赤門ラヂオぐらいは聞いたことがある.苫米地貢となると,相当に困難です.浜地はもう,かすかに聞いたか聞かなかった存在でした.

浜地家は,福岡・黒田藩の杖術指南役でした.常康の父君・八郎は黒田家の顧問弁護士で,常康の子が杖術を嗣いでいます.大船の浜地家を訪ねた小生は,その神道夢想流杖術師範の浜地金剛という方にも会いました.杖術とは刺股を使うアレです.捕物術ですから,剣術よりも低く見られることがあったかもしれない――しかし,師範氏によると剣術は人殺し,杖術は人を生かす術(殺さずに捕える)です.浜地八郎は玄洋社の社員で,娘二人は頭山満の長男・次男の嫁です.そう語る師範さん自身も玄洋社社員であるような口ぶりでした.小生は学生運動世代で,“玄洋社とはイケナイ右翼団体だ”と思っていましたので,少々驚きました.玄洋社は米占領軍に禁止されてなくなったはずですが,任意団体として続いていたのかもしれません.大船の観音は,浜地八郎らが主唱して護国観音として築造開始されたものだそうです.“カルピス”(飲料)の名称は浜地常康のアイデアである――どれも浜地家で聞いた話です.彼は,獨協中学で学び,ラジオの知識は独学で得たそうです.張作霖の求めで,浜地製の無線電話機を奉天と北京に取り付けました.常康は,音楽も得意でした.電子楽器も製作しました.彼はバラライカを弾いたとか.日本で最初のバラライカ奏者かもしれません.正統右翼の息子さんがルパーシカを着てバラライカを弾いて悪いわけではありませんが(両方ともロシアのもの),なんだか不思議な気がしました.

関東大震災前年の1922年に『ラヂオ』を創刊し(11月号で創刊.日本におけるラジオ放送開始の3年前!『無線と実験』創刊は1924年),蛙のマークのハマチヴァルヴを作った浜地は,日本のラジオ産業の創始者といってよい.しかし,その功績は意図的に消し去られたような気配があります.『無線と実験』グループあたりによるものか? しかし浜地家では,常康が不運で挫折したなどとは思っておらず,才能があり好きなことをやったが若死にした愛い息子,ということのようです.暗さ,悔恨など感じられない.

浜地常康はリッチな家に生まれ,後援者には逓信大臣もいました.望むこ

とをやった,望むことを実行でき,幸せでした.苫米地,伊藤,小川らはそれぞれこんな恵まれた境遇にあったでしょうか.おそらくノーです.違いはもともとこのあたりにあった,と小生は思います.浜地はラジオがビジネスとして十分に成立する前の人に過ぎないと言ってしまえばそれも当たっているでしょう.しかし,先鞭をつけたのは浜地常康です.

 

関東大震災(19239月)をはさんでの『ラヂオ』と『無線と実験』の発刊の流れは,次のようであったと思われます.まず,震災前に浜地が『ラヂオ』を創刊し,11号まで刊行しました.苫米地は(古沢や佐藤祐次郎も),『ラヂオ』および東京発明研究所に参加しました.震災で同誌刊行が中断し,その復刊に先手を打って『無線と実験』が発刊されました(創刊号は19245月.東京放送局の放送開始は19253月).『ラヂオ』を見て伊藤がラジオ雑誌はイケると読み,『無線と実験』を出したのでしょう.その結果,『ラヂオ』は復刊されなかった.苫米地一統は,『ラヂオ』から『無線と実験』へ引っ越した.そして,『無線と実験』グループは浜地に対する背信の痕跡を消そうとしたようです.苫米地が浜地と訣別した本当の理由はわかりません(全くの想像ですが,浜地が大病で伏していたとか).浜地家としては『無と実験』グループとの泥試合をする気はなかった(プライドが許さなかっか)のでしょう.伊藤は『無線と実験』を刊行したものの,その販売は手に余り,商業雑誌を業とする小川が同誌をいただいた,ということでしょう.小川は商売人で,早くから(『ラヂオ』の頃からか)ラジオ雑誌刊行をねらっていたようです.『無線と実験』は古沢の編集で誌面が充実し,商業雑誌としても成功しました.古沢がラジオ自作ファン向けの誌面を作るにあたって,『ラヂオ』の経験が非常に役立ったにちがいありません.

古沢には,創刊号に読者からの手紙とか読者との質疑応答を書く,といった勇み足もありました:古沢本人の回想による.ただし,これは確信犯で,読者へのメッセージでもあったのでしょう.

微細な点は,前記拙稿浜地常康の『ラヂオ』から『無線と実験』へ――日本最初のラジオ雑誌書きました.

 

 - ”浜地常康の『ラヂオ』から『無線と実験』へ,『科学技術史』(日本科
  学技術史学会),11号,2010年,1-36頁.

 

 

VII

 

 ラジオの歴史を調べる前に,日本の電子部品工業史の研究・聞き取り調査をしました.大学工学部の研究者が工業史を調べるので,大きな困難なく電子部品メーカーとコンタクトできました.ラジオ関係はそうはいきません.そこで相談相手・指南役になって下さったのが,老川正次郎さん(キャビネット・メーカーである老川工芸所/ベニスの社長)でした.それは〇〇に聞け,こういうことは??さんに頼めばよいというアドバイスです.どのようにして老川さんにたどり着いたか,電子部品(バリコン,スイッチ,可変抵抗器,テレビチューナー等)のアルプス片岡勝太郎さんからの紹介であったかと思います.

片岡さんと老川さんは,ウマが合ったのでしょう,硬軟の良いコンビで業界のリーダー・世話役でした.小生は片岡勝太郎老川正次郎というのぼりを立てたら,芝居小屋みたいだな,などと思いました.

ラジオ少年であった頃,ベニスの瀟洒なキャビネットとダイヤルにはあこがれました.もとより,手の届く存在ではありませんでした.

老川さんは,若いころに伊藤賢治の赤門ラヂオ(本郷の東大赤門前にビルが後年まで残っていました)にいたと言いますから,日本のラジオ工業界の初期にくわしいわけです.箱・ダイヤルから部品まで,外見がすべてアチャラものとそっくりでないと全く売れない,そっくりだとよく売れる,上等舶来時代であった.各社のブランド名もカタカナ英語(しばしば怪しげな)で,これが戦後まで続きました.

赤門ラヂオで老川さんの同僚であったN氏は,独立して久寿電気を始めました.あだ名がグズと呼ばれていて,久寿グズと読むのだ,ブランド名をハークとしたのは白(はく)痴だからだ,と悪童連が言ったとか.ハークのスピーカーについては,佐伯多門『スピーカー技術の100II』,誠文堂新光社,,2019年に記述があります.なお,同書IIV2018-2022年)は,多数の会社の沿革や企業家・技術者についての情報があり,有用です.

戦前・戦後を通じてラジオ界の事情に詳しく,しかもそれをよくわかるように話して下さるのは,老川氏が箱屋・家具屋であったことと関係しているでしょう.ラジオ関係の製品は金物である(製造工程は鈑金である)のに,箱は木工です.それゆえ,ラジオ・部品製造会社間の競合に巻き込まれることなく,たいていの会社と友好関係を持てます.言わば中立です.ライバル会社の社長が同業組合の長になるとまずい(前述スターとチェリーの例もある),というのとはちがいます.老川さんは業界の保険組合や年金関係の世話役をやっていて,顔が広い.日本電子工業訪米視察団(1958年.無線関係は8人)にも,老川さんが参加していました.老川さんは,業界に欠かせない人でした.

ポータブルラジオの白砂電機/シルバーを調べたいと思い,老川さんに頼んだのですが,なかなか連絡先がわからない.最後には保険・年金関係の名簿から名古屋の白砂允さんを見つけて下さいました.

なぜそんなに他社の人の面倒を見るのですかと質問(野暮な)をしたところ,次のような答えをいただきました.老川さんは東京・日本橋の生れ,ラジオの工場・店を始める人の多くは地方出で,青雲の志を抱いて徒手空拳に近い状態で上京するのだから,これを助けるのが東京の人間のつとめだというのです.この業界には偉い人がいるものだ,と感じました.

 なお,地方出身の創業者何人かに,後ほど触れる予定です.新潟県からの佐藤敏雄(日本ケミコン),山梨県からの広瀬太吉(広瀬無線電機)・角田照永(角田無線電機)兄弟など.

中野の神田川沿いの老川社を訪ねたことを思い出します.老川さんは70歳を越えていたでしょうか.頭を油で黒くきれいに固めていて,なかなかの艶福家のようでした.故・老川さんにあらためてお礼申し上げます.

 電子部品工業史については,下記拙稿に書きました.

“戦後日本における電子部品工業史”,『技術と文明』(産業技術史学会),16冊(91号),1994年,63-95頁.

 

 

VIII

 

曽田純夫さん(QQQ・中央無線社長)は,指南役・相談相手というだけでなく,一部分『ラジオの歴史』の共著者のような存在でした.QQQのカタログ類,TVK(テレビ部品技術研究会)の会則と会員名簿,同第一回議事録,『NHKテレビだより』などの一次史料を提供して下さいました.日本アマチュア・テレビジョン研究会(JAT)の謄写版二色刷の会報も,曽田さんからいただいたものだったでしょうか.島田聡さんや中央無線内外の技術者関係取材にも,助言をいただきました.

中央無線には島田さんほか腕利きの技術者が多数いて,梁山泊のようなところだったそうです.同社はラジオ技術者のゆりかごの役割を果たしたわけです.同社は米国の情報も得ていました.創業社長曽田三郎氏は売り込みに来る米軍GIからいろいろ聞いて,欲しい物の取り寄せを依頼していたということです.曽田三郎氏は,会社を大きくする路線を取らなかった.このあたりスターの佐藤氏とは対蹠的です.自社の技術力に自信があったからでしょう.

部品メーカーが機器アセンブリーに乗り出すのは,危機完成品の方が部よりも単価がずっと大きく,これが大変魅力的であるからです.スターがテレビ受像機完成品製造に乗り出して失敗に終わったのも,その例です.

 中央無線はラジオ部品やテレビ部品と受像機キットで有名ブランドでした.QQQテレビの画面がきれいであることにテレビ局が着目して,中央無線はテレビモニターを生産しました,また,三研のマイクロホンは性能が非常によかったが,会社が小さくて販売力がなかった.そこで,中央無線の曽田三郎氏がQQQブランドで発売した.その結果,三研のマイクはNHKにも採用されるまでになった,ということです.これも,中央無線の功績でしょう.

二代目社長の純夫さんは三郎さんの甥御です.曽田純夫さんは大変率直な方で,裏表がなく,会社の経営者にもこんな人がいるのかと感心しました.なお,“ラジオ技術者のゆりかご”と言えば山中無線電機もそうで,田山さん後出の西川儀市,望月冨ムも社員でした.おもてからは見えにくいのですが,こういった貢献があってラジオ界が成り立ったのです.

日立は真空管製造では後発であったので,中央無線に持ち込んで試用してもらったそうです.QQQの技術力の高さが認識されていたのです.6U8の不良があったとか,ブラウン管の蛍光膜が通電試験の一晩で剥がれ落ちたとか,です.また,NECは,真空管のブランド力で東芝に及ばないので,ひたすらgm(相互コンダクタンス)を高くして――rp(内部抵抗)を下げて,とも表現できる――評判を良くしようとしたと,曽田純夫氏から聞きました.テレビ・チューナー用の4BQ7Aあたりでしょうか.

 

 

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 曽田純夫さんから聞いた回路設計関連の話など,いくつか.機器を設計したら必ず試作してみる――これは当然ながら重要です.ところが試作して確かめなければならないような設計ではダメだと,島田聡さんの言であった.さすが島田さん! こういう先輩のいるQQQで曽田純夫さんは鍛えられたのです.“技術者のゆりかご”中央無線の一例です.

キードAGCは,テレビ受像機のAGCとして最高級です.しかし,キードAGCとパルス幅AFCを併用すると良くない.これを発見したのは島田さんだということです.島田さんでも実機の不具合から学ぶ場合もあったのです.

小生は,島田さんに何度かインタビューしました.氏は広島で育ち,同地のラジオ商のあいだで有名なラジオ少年でした.小学生のときにコロナスピーカーを作って週刊誌の記事になりました.東京へ出てきて秋葉原を見た時,なんだ,こんなものかと思ったそうです.軍都呉が広島の近くにありましたし,戦後の朝鮮特需で広島は繁栄し,電気商には米軍関係の物資があふれていたのかもしれません.テレビの初期に『ラジオ技術』には,学生だった島田さんが本名のほかペンネーム(堤正雄など)を使って受像機製作記事を書いていました.

 島田さんとコロナスピーカーについて,当時の『週刊朝日』記事の写真が佐伯多門『スピーカー技術の100年――オーディオの歴史をスピーカーから俯瞰する――黎明期〜トーキー映画まで』,誠文堂新光社,2018 71頁に,再録されています.

島田聡さんは,別格の超大物です.東工大卒業時に先生(川上正光教授であったか)から後継者として大学に残るよう望まれたが,承諾しなかったとか.中央無線時代,島田さんは他メーカーに行くと先生扱いであったそうです.中央無線からA社入りして,トランジスター・テレビを開発しました.同社では,高周波特性の良いトランジスターさえあればトランジスター・テレビができると思っていたらしく(トップから技術者まで),水平偏向用に大電流スイッチングのできるトランジスターの必要性を思わなかったようです.

島田さんはびっくりしたとのこと.

設計理論について大学の先生の書いたものは具体的な機器設計にどれほど役に立つのかな?と,小生は生意気にも思ったものです.東工大教授川上氏の著書はとくに中間周波増幅回路について勉強になった,と曽田純夫さんの言.『電子回路 II』(共立出版,1955年)のことでしょうか.

次は,理論でなく実際面:電子機器において,ハンダ付けの良否は非常に重要です.曽田さんは,製造のおばさん社員から社長さんや技術部の皆さんのハンダ付けは下手くそで見ていられないと言われたとのこと.

有坂英雄さん(倉島さんの書き込みを拝読しました)のハンダ付けについて:手塚則義さん主宰のミーティングで,有坂さん自作の超高周波増幅器を拝見しました.見事なハンダ付で,ハンダが光っている! 芸術品でした.メーカーのベテランおばさんでも,こうはいかないでしょう.

2年ほど前に曽田純夫さんから“しばらくぶりに会いましょう”と電話をいただいたのですが,“コロナ禍が落ち着いてから”と返事して先延ばしにしました.その後,氏は逝去されました.軽い返事をして断るのではなかったと,悔やみきれません.あらためてご冥福をお祈り申し上げます.

 

 

X

 

朝倉昭さんには,オーディオやラジオ雑誌関係でいろいろ指南いただきました.小生もオーディオ(ハイファイ)にあこがれていたのですが,オーディオはラジオよりもお金がかかるので,いつもスタイルブックを見てため息をつく女性状態でした.後年には6RA2ppOTLアンプを作りました.グレース(品川無線)のトーンアームとカートリッジを使うようになって,僕も少しリッチなんだ,と思いました.そのグレースの社長である朝倉さんにお目に書かれるとは! 感激・緊張したものです.

 氏は,良家の令息といった感じで,何事にも明晰に話して下さいました.調布飛行場から自家用機を操縦して飛ぶなど,多趣味の人です.米国(AES)と日本のオーディオ協会の役員を務めて,多忙のようでした.港区・品川方面にあった富士製作所や浜地のハマチヴァルヴの工場・店の名残り(バス操作場になった場所とか)を語って下さいました.朝倉さんは,工業会やラジオ雑誌(『電波科学』であったか)の編集部に勤務していたので,情報・顔が広い.

グレース(品川無線)は,レコードプレーヤーのトーンアームやカートリッジのメ−カーです.戦後のひところ,西川電波(パーマックス)が斯界の大手でした.パーマックスはスピーカーも作っていました.同社と創業者西川儀市について調べたい,と思っていました.朝倉さんや,のちソニー社入りした森園正彦さん(テープレコーダーの),吉田進氏も西川電波に勤務していました.朝倉さんは,西川氏が存命である旨をおっしゃっていました.しかし,西川さんと連絡をつけることはできませんでした.何といっても西川氏は大物です.同氏といい,佐藤俊氏といい,挫折した大物に会うことは困難です.

朝倉さんは,すべてゆったりとした方で――余裕がある――競争社会の企業社長にこういう人がいるのか,と思いました.小生がインタビューした方々は誰もどこかしっかりと闘志を持っていると感じさせるのですが,朝倉さんは一寸ちがいます.業界のコーディネーターとして貢献する人でもあるのでしょう.この点では老川正次郎さんと似ています.こういった指南役のおかげで『ラジオの歴史』ができたのであり,大変ありがたく思います.

 

 

XI

 

ラジオ雑誌については,南波十三男さんからいろいろ教えていただきました.お目にかかることはできませんでしたが,電話で何度も質問し,ご意見をいただきました.氏は,『電波科学』,『ラジオ科学』や『電波とオーディオ』の編集部員・編集長を務められました.奈美野冨男というペンネームも使いました.並の男という意味です.電話で会話した印象では,なかなかのサムライのようでした.不躾な質問をたくさんして,よく怒鳴られなかったと思います.ラジオ雑誌編集・発行の内実は,小生のような部外者にはわかりません.南波さんは,最盛期の各ラジオ雑誌の発行部数などを教えて下さいました.店頭に並べるべく書店に運ばれてくる,その部数のうち1割はロスとなる,ということも.南波さんに心から感謝しています.

 

柴田寛の『ラジオ科学』(『ラヂオ科学』)を愛読した人も多かったでしょう(ことに地方で).小生の記憶では,書店の店頭で見ても,いかにも垢抜けない,判型も他誌より小さい.読者の声も編集部補作(あるいは全くの編集部作)みたいで,東京のラジオ少年には向かない.地方のラジオ工作ファンにはアピールしたのでしょう.都会的な『ラジオ技術』とは天と地のちがいです.これは柴田寛(柴寛と呼ばれた)の戦略であったようです.日本一安いラジオ雑誌と謳っていました.ラジオ工作少年は,スタイルブックを見てため息をつく女性のようなところがあります.先端モードにあこがれるにしても,読者の境遇からあまりかけ離れていないものを見せた方が購買欲を刺激する,これが柴寛の戦略であったのでしょう.ハイブラウは避ける,ということです.

柴寛と『ラジオ科学』については,下記に詳説しました.彼は,『ラジオ科学』ののち,ガム製造へ転身しました.

 NHK技研所長でおっとりタイプの中島平太郎さんがやり手の柴寛と親しかった,というのは何かチグハグな感じがします.中島さんは,自分の文章は柴田さんに直してもらってできたとおっしゃっていました.実は柴田さんは中島さんの仲人であったそうで,それならば・・・です.

中島さんには,その後何度もお目にかかりました(後述のA社の介在なしに).大変率直な方です.氏は,後輩技術者に慕われ,ファン(信者)も多かった.スピーカは2way3wayと分けるほど,良い音になるとおっしゃっていました.高音と低音の混変調のようなものが良くない,ということでしょう.小生の場合,ステレオは未だに三菱の6インチ半で聴いています.2way3wayにするお金がないし,巨大なスピーカーボックスを二つも置くスペースがないからです.

 

- ”柴田寛と『ラジオ科学――ラジオ雑誌の歴史』,『科学技術史』(日本科

学技術史学会),6号,2002年,31-70頁.

なお,同誌4号,2000年に,柴田徹『初歩のラジオ』の寄稿者たちの経歴とその特質もあります.戦後の学校で職業家庭科にラジオ工作が入って,教員たち(ことに地方の)が『初歩のラジオ』でラジオ技術を勉強しました.『ラジオ科学』も,でしょう.ラジオ技術の通信教育も役立ったはずです.

 

 

XII

 

内尾さん,画像を出して下さってありがとうございます.こぼればなしに画像を入れようとも思ったのですが,入れたい画像が多数あってきりがなくなるので,断念しました.『ラジオの歴史』には,写真・図をふんだんに入れました.

『ラジオ科学』に限らず,ラジオ雑誌には毎号に代理部ページがついていて,代理部頒布はまことに盛んでした.真空管,各種部品,工具等々.地方のファンにとってこれほど有難いものはなかったでしょう.高級スーパー受信機や電蓄の豪華なキットが並んでいて,小生には手の届かないものを見せるスタイルブックのようなものした.本文の目玉である製作記事の部品一式キットもありました.代理部の利益が雑誌販売を上回っていたこともあったようです.科学教材社(誠文堂新光社の小川社長の弟がやっていた)刊行の『ラジオと模型(ラジオと模型工作)』誌の例もあり,ラジオ雑誌と代理部とは連動して一体でした.地方で代理部の部品・キットを購入された皆さんの経験談を聞きたいものです.巻末の分厚い代理部ページは,紙質が悪かったり,色のついた紙であったように記憶しています.なお,部品・真空管頒布は浜地の『ラヂオ』から始まっていることも指摘しておきましょう.

製作記事を書くライター先生や編集部には,部品会社等からサンプル部品がたくさん届けられたようです.作ったつもりの製作記事もあったかもしれない(トランスレス受信機で25MK15のはずが35W4が挿してある写真の製作記事があった).また,ふんだんに届けられる部品でラジオや電蓄を組立てて知り合い等にわけると,編集部員のよいアルバイトになったとか.

回路図の版は手書きであったようで,これは職人技・名人芸ですね.下手くそな回路図を載せる雑誌もありました.島田聡さんは,印刷ぎりぎりまで回路図を渡さない,編集・印刷泣かせであったそうです.長い線を何本も引っ張る回路図はダメなんだ,と島田さんの言.

 

 

XIII

 

『ラジオ技術』の誌面は斬新でした.石井富好これに貢献したと思われます.『ラジオ技術』創刊の頃,仙花紙(再生紙)を使っていたので,石井は写真図を必ずおもて面に来るように編集しました(うら面はざらざらしていて写真が汚くなる).彼の功績の一つです.石井は,『無線と実験』で古沢の後の第二代編集長でしたから相当のベテランですが,先輩編集者たちから低く見られていたようです.その理由ははっきりしません.小生が調査した時期に,尾羽打ち枯らした石井にバッタリ出会ったと言う話を聞きました.アルコール依存の自己破滅型? 戦後に,石井はRex(変圧器製造の巴電機製作所)にいたことがあります.平田電機製作所(タンゴ)の平田兄弟もRexにいたと言います(Rexの社長あるいは平田が山形県酒田出身で,石井と同郷であったか).そこで,タンゴ社に連絡を入れました.しかし,このルートによる調査はうまくいきませんでした.石井の人と業績はきちんと書き遺されるべきである,と考えます.

ラジオ工房掲示板の皆さんの多くが,『ラジオ技術』誌だけでなくラジオ技術全書のお世話になったはずです.小生は,今でも一木吉典『全日本真空管マニュアル』ほかを持っています.これら『ラジオ技術』文化と呼ぶべきものがあったことを,指摘しておきたい.元・編集部の人でも『ラジオ技術』物語というような記録を書いてくれることを希望します.

小生は,ラジオ技術社(神田淡路町)やエーアイ出版を訪ねたことがあります.『ラジオの歴史』を謹呈しようとエーアイ出版に行ったのですが,間の悪いことに『ラジオ技術』刊行締切間際であったらしく,挨拶もそこそこに退去という羽目になりました.この頃の編集長は視力が落ちて大変であったようです.

『ラジオ技術』ライターには,北野進さんほか東工大の教員・学生が多かった.そのせいか,それまでの他誌とちがった品の良さがあります.日本オーディオ協会創立グループと『ラジオ技術』グループとは重なっており,同誌はオーディオ技術誌としても成功しました.また,『CQ』の創刊号は東工大北野研究室で編集された,と北野さん自身の言です.『ラジオ技術』誌上の富木寛は北野氏のペンネームで,負帰還(ネガティブ・フィードバック/NF)をもじったものです.ラジオ技術社 “ラジオ技術全書”シリーズ中の『ハイファイアンプの設計』の著者の百瀬了介は,北野研究室の研究生であったとのことです.北野さんは大学の先生から転身し起業しました.当時の斯界では珍しい例でしょう.風貌もプロフェッサー然として,気さくな方でした.“東工大では実験室内各所にマイクロホンを配置して音波の空間分布を分析した”とおっしゃっていました.研究トピックとしてはおもしろいな,と思いました(小生も実験研究者でしたので).商品開発に必要なセンスはこのような研究者の能力とはちがうでしょうが,氏のNF回路設計ブロック社はア

ナログ技術の製品に重点を置いて好調でした.石井富好について北野さんにくわしく訊いておくべきでした.

 

ラジオ雑誌調査に関し,為我井忠敬さんに大変お世話になりました.戦後の『ラジオアマチュア』(『CQ』とは別物),『ラジオと実験』,『ラジオ世界』などは,為我井さんからいただいて知った雑誌です.氏は,戦中,軍需省の軍需官でした.お堅いエリート役人・技術者がラジオ工作ファンであったとは,びっくりしました.陸軍技術大尉,戦後は防衛庁,専門は電波兵器・防空シスシテムであったようですが,『水――水と産業』,あいうえお館,1983 という子ども向けの本を書いています.幅広く知識を持っていた方であったのでしょう.

 

 

XIV

 

内尾さん,『ラジオ技術』創刊号の画像を出していただき,ありがとうございます.『ラジオ技術』創刊号は貴重品です.小生は初めて見ます.以下,これを見て考えたことなど.

『ラジオ技術』のルーツは,他誌とちがって独特です(『ラジオの歴史』61-64頁).理化学研究所(理研)周辺に科学主義工業グループがあり,これは左翼系であった.戦後,同グループは生きるために石けん会社や婦人雑誌といった事業をやったがうまくいかず,『ラジオ技術』だけが成功しました.発行所の科学社は,科学主義工業の改称です.

内尾さんの画像の創刊号目次を見ると,解説記事が多く,溝上_,高村悟,富田義男といったNHK関係者が執筆していて,ややお堅い雑誌という印象を受けます.よりもに近いという感じか.東工大教員の実吉純一の名もあり,東工大との関係が当初からあったことが窺われます.理研の大河内正敏所長の甥である大河内正陽が東工大教員で戦後の日本アマチュア無線連盟理事長でしたから,科学主義工業グループは東工大やラジオ界とも近かったと推定されます.石井富好の“創刊の言葉からも,大河内正敏によるサポートがあったことがわかります.また,大河内正敏の子のひとりが左翼であったことも関連しているかもしれません.主筆・石井がもともと大河内正敏に近かったかのかどうか,また,左翼であったかどうか,わかりません.

『ラジオ技術』ライターのひとり島田公明は,島田聡とは別人か.公明とは,字が通ずるようにも思われますが・・・.後述のS氏も書いています.

『ラジオ技術』創刊号に見る編集部の顔ぶれなど:寺沢〇充は,『無線と実験』編集長であった寺沢春潮とは別人でしょう(石井と寺沢春潮とは不仲であったと伝えられます).全くのあてずっぽうですが,左翼?と思われるのは福士実でしょうか.

後年の『ラジオ技術』編集部にも左翼人がいたかどうか? 原正和は科学主義工業系であったようです.

それにしても,石井が『無線と実験』を離れた事情を知りたいところです.ラジオ雑誌編集関係者に訊く機会はあったのですが,何か微妙なことがありそうだ(もめごと?)と感じ,ズバリ質問しない方がよいと,見送りました.何人もの方にしつこく尋ねるべきした.

掲載広告から雑誌の勢力圏 がなんとなく推測されるのですが,この『ラジオ技術』創刊号広告の会社の多くは初見で,ピンときません.

以上,大変細かいことを書き連ねました.皆さんにはご迷惑かと思いましたが,内尾さんのご配慮,せっかくの機会なので書いてみました.お許し下さい.

 

 

XV

 

ラジオ雑誌・アマチュア無線雑誌の編集部員やライターのプロフィルは,興味のあるところです.『ラジオの歴史』20-21頁に,戦前・戦後のラジオ雑誌と編集者を一覧してあります.

『電波科学』の編集部には固い序列が存在したようで,有能であっても編集長になれない(なれるはずがなかった)人もいたようです.白戸庸一・増田正諠らが『電波科学』を出て『電波技術』を発刊したのには,このような事情があったらしい.NHK/日本放送出版協会も元々はお役所みたいなものですから, 学歴身分制でもあったのでしょうか.

 斎藤健さん(JA1FD),菅宮夫さん(JA1CO)にもインタビューしました.『CQ』誌等に書いていたライターにラジオ少年はあこがれていたものですが,会ってみると(当然ながら)小生の抱いていたイメージとは少々ちがいます.お二人とも,実直な方という印象でした.藤室衛さん(JA1FC)には,何度も会いました.小生の144MHz送信機は氏の記事を手本にした(2E26プレートの同調回路と,これ用のチョークコイルの作り方など)ので,氏は大変エライ人だと思っていました.実際の藤室さんは裏表などない気さくな方でした.

岡本次雄OMJA1CA.『アマチュアのラジオ技術史』ほかの著者)を,鎌倉のお宅にお訪ねしました.木賀忠雄OMJA1AR)に同道していただきました.秋葉原に電気街が移る前からの神田のラジオ・電気関係の店について教えて下さいました.神田(並四とか5球スーパー用の穴あきアルミシ

ャーシーを神田シャーシーと呼ぶ神田です)については読んだり聞いたりしていましたが,戦前からの実体験の話は格別で,非常に参考になりました.岡本さんは独居老人で,ベッドに寝た切りのまま話をされる.詳細・明瞭なお話で,迫力がありました.

泉弘志(ペンネームであろうか)さんには『絵で見るラジオのABC』等でお世話になった人も多いでしょう.イラストを含めて独特の筆致で,初歩のファンにわかりやすいだけでなく,見て楽しい本でした.会ってみるとやや気難しい人のようで,父君は皇国史観で有名な東京帝国大学教授平泉澄だということです! 何かチグハグな印象を受けました.

文は人をあらわすと言いますが,読者が持つ印象と著者の人柄とは別物のようです.これは,読者の勝手な思い込みによるものでしょう.

通信型受信機の研究を書いたSさん(日本人)がいました.彼は米国在住で,小生は米国に行った折に氏に会いました.日本にいたころラジオ雑誌への投稿者からライターになり,フィアンセに誘われて米占領軍で放送傍受の仕事に従事するようになって,沖縄の基地にも勤務したとのことです.短波受信機にくわしいのは当然です.“籠の鳥”状態での仕事だったらしい.その後,Sさんは米国へ移住しました.初対面で短時間の面談,話がインテリジェンス(諜報)活動関係に及ぶので,立ち入った質問はできませんでした.その女性はもともと米インテリジェンスのスタッフで日本人の氏をスカウトした,と想像することもできるでしょう.このような例はほかにも相当数あったにちがいありません.その後S氏は,有償で来日インタビューに応じるという提案をしてきました.小生にはその金額を工面できず,これは断念しました.なお,小生が行なったインタビューはすべて無償で,実現しなかっ

たこの件は唯一の例外です.

 

一度だけのインタビューでは,肝心な点を率直に質問しにくいものです.核心にふれることは,往々にして,本人はしゃべりたくない(都合が悪い)からです.初対面のインタビューでは,こちら(小生)も予備知識不足で問題の中心がよくわかっていない,という事情もあります.インタビューも二度以上になると,頃合いがわかってきます.何を質問してはいけないか(逆鱗にふれる)もわかってきます.ことの核心は,本人でなく,周囲の人(できれば複数)から訊き出すほかありません.(新聞記者によるインタビュー記事の多くがハチャメチャなのは,事前調査不足のうえ,二度もインタビューする暇がなく,あらかじめストーリーを作っておいてこれにあてはめてインタビュー記事を書くからです,)インタビューでは事前調査がいちばん大事です.その意味で,前述の指南役・相談相手の方々の存在が大きかった.インタビュー相手がなんだこいつ,何も知らないんだ.テキトーにあしらっておけと思うのと,おや,ちょっとはわかっているなとのちがいです.また,相手が有名人の場合は,いろいろなインタビューアーから同じ質問を何回もされていて,答も類型化されて本人のアタマに刷り込まれています(新聞記者にはこのような答をすれば,それでよいのです).有用な情報をしゃべってもらうには,類型化された答以上のものを引き出す力が必要です.

 

 

XVI

 

内尾さんの『電波技術』創刊号表紙画像,ありがとうございます。『電波科学』全編集部員責任編集とはスゴイですね.かたちとしては『電波科学』から円満退社のようですが・・・.『電波技術』画像に電波科学19538月中有効 ラジオ技術相談券とあります!

『電波技術』の増田正誼は,のちにまたスピンアウトして,『電波実験』を始めました.諸ラジオ雑誌の編集スタッフたちには出入りもあり(一例ですが『ラジオ技術』の福士実はのちにオーム社の『ラジオと音響』にいた),全体として事情に通じた仲間であったにちがいありません.『ラジオ科学』の柴寛が音頭をとってできたでラジオ雑誌記者の会もありました.ラジオ雑誌編集部の周辺や内幕などをOBの方でも書いて下さると面白いのですが.今となっては書ける人は存命でないでしょう.

内尾さんの『電波技術』創刊号画像中の次号予告に望月冨ム(後掲)があります.編集後記の田島は,後掲JATの会員になる田島定爾さんでしょう.この編集後記の久我さんにも会ったことがありますが,くわしい話は聞けませんでした.

村瀬一雄氏はNHKのこの関係では重要人物であったようです.日本放送協会には,創立以来,W大学主流という位階があったように思われます(お役所・公的機関で国立でない大学が幅を利かしたのは,珍しいことでしょうか).

 

 

XVII

 

大会社の社員である方にインタビューして,おもしろい話が聞けることはあまり期待できません.サラリーマン技術者で,タガがはまっているからです.現在いる会社以外の話ならば,事情はちがいます.

部品製造の中小企業というと大メーカーから図面を渡されて製造するというイメージもありますが,それは機械部品についてであって,汎用性のある電子部品はちがいます.技術では上の中小企業に大会社が学ぶ場合も多々あります.前述の中央無線は,その例です.片岡電気(アルプス)は大手セットメーカーT社にテレビ・チューナを供給していました.ある時期からT社はこれを内製に切り替えました.T社のテレビのそのチューナーにはアルプス・チューナーと同じ設計ミスが残っていた,という話.T社のチューナーはアルプス・チューナーのコピーであったわけです.大メーカーは専門メーカーに部品を納入させて,その技術やノーハウを学ぶ(いただく)のです.八欧無線(ゼネラル)が不調になったとき,同社技術陣の力を買って,同業他社がゼネラルの技術者を引き取りました.新しい職場での彼らの貢献は大であったと言います.さて,聞いた話:ゼネラルが不振で,経営立て直しのために銀行から経営陣が派遣されました.創業社長八尾敬次郎は心痛のあまりボケてしまいました.しかし,時々正気に返り,社の廊下で現社長の銀行屋さんをつかまえて,僕の会社を食い物にして,元に戻してくれと言う,部下は社長,およしなさいと袖を押さえる.涙するような話でした.

NHK技術研究所所長であった中島平太郎さんは,のち大会社のA社入りしました.中島さんはNHK技研でスピーカー技術を手がけ,これを三菱電機(ダイヤトーン)と福音電機(パイオニア)に移転しました.A社では,ディジタル・オーディオを開発しました.同氏にインタビューしたのは,氏がA社の現役を退いてからであったか.インタビュー場所はA社の一室でした.入ってみると,A社社員が3-4人ズラッと座っているのです.中島氏発言のチェック(チョーク)であることは明らかでした.ははあ,A社もふつうの大会社なのだなと思いました.

現役社員がお目付けで同席するインタビューは中島さんのA社のときだけでしたので,強く印象付けられました.(シャープのテレビ受像機開発陣の服部正夫さんに会ったときは,シャープ社員も来ました.しかし,これはご本人がパーキンソン病で身体の動作が定かでなく,その介添え役で同席したものです.)

A社は技術者が自由に腕をるえるところだ,という伝説があります.トップエリート技術者は,マコトくんセイイチちゃんとか,ファーストネームで呼び合っていたようです.これは米国流でしょうか,同社B氏のスカウト能力は大したものであったようですが,スカウトされて入社した技術者全員が存分に活動できたかどうか.中島平太郎氏のような大物でも,監視の眼にさらされていたようです.中央無線から入社してトランジスター・テレビを開発した島田聡さんも同様でしょうか.島田氏はA社でC氏に相当??られた,ということを第三者から聞きました.C氏はB氏のお気に入りで,トランジスター・テレビ開発の責任者,つまり島田さんの前任者でした.C氏がトランジスター・テレビ開発に成功しなかったからでしょうか,島田さんはその功績にもかかわらずA社で然るべき処遇を受けなかったようです.A社の技術陣はそろって優秀であったという神話もあるかもしれませんが,島田さんほか少数以外はふつうの技術者であったようで,優れたリーダー技術者が一人いればよいのだという前述の春日二郎さんの言の通りです.その島田さんを冷遇してA社は損をしたか.

A社には,また,規格外のネジを使う性癖がありました.他社との互換・共通性を嫌ったか.開発陣幹部のC氏が機械工学科出身であったからか?(であったのに,か?)

ドイツ語では,”sauber und sachlich”という言い方があります.意味は清潔・清廉で公正,誉め言葉です.大組織はsauber und sachlich一辺倒では立ちいかないのでしょう.

 

 

XVIII

 

東芝も大会社です.佐波正一さん(元社長)とは,電気学会関係のこともあって,何度か本社の執務室に訪ねました.窓から見える芝浦の景色はなかなか素敵で,明治初年の陸蒸気開通・電信開通の頃もかくやと思われるもの

でした(現実に見えている物体は往時とはちがいますが).

この眺望が佐波さん訪問の一番の収穫だった――というのでは不謹慎ですから,以下を書きます.高名な牧師の植村正久の娘婿である佐波亘牧師が,佐波正一氏の父君です.佐波正一さんも,戦後には国際基督教大学理事長を務めました.氏は,東京帝国大学電気工学科の学生のときから,東芝の社長になる人と目されていたそうです.戦時体制下でキリスト教がヤソと呼ばれて嫌悪されていた時代ですから,佐波さんがいかに傑出した人物であったかがうかがわれます.

なお,キリスト教界の大物で,佐波亘を師と仰ぐ武藤富男という人がいました.武藤は神道にも接近し,満州国官僚として辣腕を振るい,戦後は明治学院(ローマ字のヘボンが創立したキリスト教系の学校です)の院長になりました.キリスト教徒が戦時体制に親和したという例です.戦後の左翼社会運動家の武藤一羊がこの武藤富男の子だそうですから,ややこしい.武藤富男『恩師二人 : ウェンライトと佐波亘』,1967年という本があります.

佐波さんは東京芝浦電気(東芝)に入社して,軍人に通信技術を教える教官という役回りになりました.氏の専門は強電分野でしたので,城南・川崎あたりの中小工場を訪ねて電気通信・無線の知識を身につけたのだそうです.終戦直後,電力が余った時期が短期間ながらありました.焼け野原で需要者

が壊滅したからです.この頃には大電力高周波で木材を乾かすといったことが行われた,と佐波さんの話.茶葉の高周波乾燥もあった.ビニールを接着する高周波ウェルダーというのもありましたね.

佐波さんに山中無線電機の話をしたら,同社の所在地であった大田区の不入斗(いりやまず)を懐かしがっていました.山中無線電機は東芝の傘下に入った会社ですから,佐波氏ともかかわりがあったのでしょう.

小生は日本の電子工業(当時,世界中で大躍進していた)の海外生産拠点を見たいと思い,佐波さんに頼んで米国の東芝テレビ工場(ナッシュビルであったか)を見学させてもらいました.小生がテレビ修理のアルバイトをしたころの真空管式シャーシーとちがって,半導体カラーテレビのシャーシー(基板)はあっけないほど薄かった.フォスター電機(Fostex)のシンガポール(ビンタン島)のスピーカー工場を見学したこともあります.同社の市川秀一さんに紹介していただきました.これらの見学はどちらも,日本の電子工業最盛期でした.このスピ−カー工場では,女工さんがずらりとベルトコンベアの前で組立て・接着作業をしていました.学生時代の見学のとき,テレビ受像機工場で頭に布をかぶった女工さんのベルトコンベア組立て作業を見ました.何列ものコンベアが遥か彼方まで続いていて壮観でした.シンガポールのスピーカー工場のコンベアは,ずっと小ぶりでした(スピーカー自体もテレビ受像機のシャーシーより小さい).工場前に若い女性多数が列を成していました.女工を何人か補充するというので,面接待ちの列です.狭き門です.女工さんは,土地ではエリート格なのでしょう,女工さんの生活は籠の鳥なのだろうな,と思いました.かつての日本を見るようでした.

さて,その東芝社はいま,無くなったわけではないけれども・・・佐波さんが存命だったらどう感じたでしょうか.小生の専門分野では?な技術部長がいました.彼一人のせいで東芝が左前になったわけではないでしょうが.大組織である大会社には,このような幹部が一人や二人いるのでしょう?

電子部品工業史を調べたとき,高野留八さんを取材しました.東芝川崎の工場で辣腕をふるい,出入りの中小企業にはずいぶん重しがきいたようです.部品技術の向上・部品工業の育成に非常に熱心だった人です.東芝で氏は決して位階が上の部類ではない.大組織では,たとえ部長とかもっと上がどうであっても,中ほど・現場にしっかりした人がいて会社を支えているのです.東芝は,日本の電機工業の初期から技術の導入と国産化に努めてきました.米GE社の系列会社だったこともあります.外国から得た技術を咀嚼して関連の中小企業に教える,日本の電機工業の長男としての責任を東芝は果たしてきました.高野さんの仕事もその例です.

ところで・・・工場の人事異動は,出入りの中小企業の連中の方が東芝社員よりも早く知っていた,ということです.当然ですかネ.

東芝と日本の電子部品工業を支えた高野さん,どうして東芝はこんなになっちゃんたのだろう.高野さん存命ならばどう感じるでしょうか.

 

 

XIX

 

秋葉原の電気街についても調べました.いまは秋葉原の老舗家電店がいくつもなくなりました.ラジオストアーも閉店.諸行無常です.

秋葉原の家電店ほかについて,角田無線電機の角田昭永社長(広瀬無線電機の広瀬太吉氏の令弟だそうです.お二人は山梨県出身)が,アドバイスして下さいました.いくつかの会社の社長にインタビューしました.中小の会社の社長(創業社長)はたいたもので,いろいろな情報を集めて自分で判断します.世の中のさまざまな動向をキャッチして知っている(代目社長となると,ゆったりしたジェントルマンが多い.CR社の安部守さんほか).大企業の社長とはちがいます.角田さんに何度か会って,このように思いました.氏は,何か訊いても的確な返事・情報がすぐ返ってくる,そうなるのはこういう理由があるからだと言う明快な説明(それがいつ何年のことであったか,まで)です.流通・取引・営業関係は苦手な小生は,本当に助かりました.角田さんと老川正次郎さんとは,似たところがあります.

流通・取引,系列化というと,M社の名がよく出てきます.電子部品関係で聞いた話ですが,品質優秀で堅実な部品メーカーがある.M社の営業が訪ねて来て,うちにも納入してくれと言う.今の顧客で手一杯で十分儲かっているからと断っても,何度も通ってくる.そこまで言うならば少量だけ応じましょう,ということになる.しばらくしてから,取引量を増やしてくれ,となる.拝み倒されて納入量を増やす.これが繰り返され,製品の大半がM社向けになっている.そこへスパーンと発注打ち切りとくる.この部品会社

M傘下に入らないと倒産することになる.この会社の技術はそっくりM社のものになる・・・.また,自動車メーカーH社はイメージの良い会社ですが,やり方がエグいと知り合い(油圧機器会社の社長)が言っていました.企業の競争社会では,エグいのは珍しくないのかもしれません.

D社の営業社員が秋葉原界隈のとある店に入って,しばらくすると出てくる.電柱の陰にいたEの営業が店に入って,今のはこれでしょうと言ってソロバン(電卓)で数字を出す.と,手を打ったばかりのDの金額とぴったりです.うちはこれにしますといって低い数を示す.取引成立,E社の逆転勝利です.この類のこと,よくあったのでしょう.

大手電機メーカーH社はラジオ関係ではやや後発であったので,野武士精神というのか.営業も頑張ったという話.和歌山県下の某地区のM系列電気屋(家電店)の全部を,一夜にしてH系列に寝返らせたことがあったとか.和歌山はカリスマ創業者Mさんの出身地ですから,M社の部長か課長の首が飛んだでしょうか.

次の話,秋葉原のサトー・パーツの社長であったか,太平洋戦争でラバウルか南方の島に駐屯しました.ラジオ放送を聴きたい.錆びたカミソリの刃に小便をかけると検波器になるので,レシーバー(受話器/ヘッドホン)さえあれば鉱石ラジオができるのだそうです.ホンマかいな? 追実験しましょうか.

秋葉原は話題性があり,よくジャーナリストの記事にもなります.しかし,研究資料に使えるような本・論文は非常に少ない.一橋大学の山下裕子氏(教授)の研究が有用であると思いましたが,その後これを氏がどうまとめられたか.

その後,倉島さんから山下先生の論文について書込みをいただきました:山下裕子市場における場の機能『組織科学』,271号,7586頁(https://www.jstage.jst.go.jp/article/soshikikagaku/27/1/27_20220630-105/_pdf.)

 

 

XX

 

テレビ放送の初期には,受像機メーカーにもテレビ局にもテレビ技術のわかる人がほとんどいませんでした.大手メーカーが受像機製造を始めるにあたり,社員のうちでラジオ・テレビ工作ファン,テレビ受像機を組み立てたことのある者を探して担当チームをスタートさせたりしました.受像機生産

には,工員と工員指導係の技術が必要です.受像機生産は急拡大の一途でした.そこで,受像機メーカーは街のラジオ・テレビ技術学校の先生による社員講習をしたり,これらの先生を招聘して社内学校をひらいたりしました.多摩川の向こうのテレビ学校に頼んで来てもらった,というような表現を読んだことがあります.社員に組立てさせて訓練するためのテレビキットを大量に作った大手メーカーもありました.松下電器は,使用真空管が他メーカーとちがって300mAシリーズだったので,自前で修理技術者を養成する必要があり,キットを使ったのでしょう.また,ラジオ・テレビ技術学校の修了生を社員として雇用したことがあります.大会社Hで採用基準に満たないにもかかわらず多数を社員にした,と工場史に書いてあります.社内で異質の存在であったがよく働いてくれた,とか.

テレビ局にも技術者が必要です.初期にはとくに不足し,貴重な存在でした.小生の知り合いのひとりはラジオ・テレビ工作ファンで,最初期の?本テレビに入社しました.” ?テレにあのままいたら,いまごろは重役になっていたと笑っていました.

テレビ技術関係では,曽田純夫さん,石橋俊夫さんのほか,平沢進さんにいろいろ教えていただきました.業界の実情は部外者にはなかなか理解できませんので,これらの方々からのご教示は大変助けになりました.

原島四郎と言えば,テレビ放送開始前に受像機を組み立てた人で(日本放送出版協会の雑誌『ラジオとテレビジョン』,創刊号,1950年の表紙にもなっている),NHK技研のスタッフがご意見拝聴したというスーパー大物です.原島さんはタバコ屋の店番をしながら受像機を組み立てた,とも伝えられます(三宅博談).小生が会ってみると(三宅博さんも一緒に),ふつうの人でした.こういった方々を皆エライ人だと思い込むのは,元ラジオ少年の習性/特権でしょうか.

日本アマチュア・テレビジョン研究会(JAT)についてはおもしろいことが沢山あって,とても書き切れません.TV K(テレビジョン部品技術研究会)についても同様です.JATと日本オーディオ協会関連のことを,下記拙稿にも書きました.

TVKNHK技研の石橋俊夫の指導下につくられ,佐藤俊(スター)が会長,曽田三郎(QQQ社長)が副会長格でした, NHKの意図通り,TVKは受像機産業を創成するのに大変に役立ちました(JATも).しかし,ある時期に,石橋さんはテレビ部品・受像機製作技術のノーハウをこれ以上ラジオ雑誌に書くなと言ったそうです(曽田純夫氏談).曽田三郎社長は不本意であったでしょうが,NHKとしては受像機自作アマチュアや中小企業に頼る時期は終わり,受像機量産メーカーの時代に移行する,ということだったのでしょう.こうしてTVKは(JATも)歴史的使命を果たし終えました.

JAT役員・会員でこぼればなしに出てくる名に,永田秀一,松浦一郎,原島四郎,増田正誼,富田潤二,春日二郎,三宅博,田島定爾があります.JATの女性会員であった上田(甘利)静江さんにも,インタビューしました.ほかに『ラジオの歴史』関係でインタビューした女性に,『初歩のラジオ』編集部の竹内王子(きみこ)さんもいます.電子部品(コネクター)の多治見無線の多治見孝子社長,高槻無線(タカヒロ電子.『CQ』に頒布ページがあった)の高槻弘子社長,八木アンテナ関係の八木和子氏,一橋大学の山下裕子先生も.

JATの事務局は松浦一郎(秀行[高橋順子1] が引き受け,JAT本部は彼の東京音響(松浦拡声器製作所)でした.松浦氏は建築畑の人で,自己流のラジオ修理からラジオ界に入りました.コオロギほか鳴く虫の研究家で,大学の研究者も話を聞きに来たということです.ところが――曽田純夫さんは世田谷の松浦家にテレビ修理に行ったそうです.修理ならば腕に覚えの松浦さんであるはず(兵頭勉というペンネームで『ラジオ修理メモ』という本を書いている――兵頭勉はベートーベンをもじったものです)なのに,ご自分ではテレビの故障修理はしなかった? 曽田さんがいい加減な話をするはずはないし・・・.

 

-“ラジオ技術における非公式な研究交流団体の歴史―― I 十日会の足跡”,

『科学技術史』,10号,2007年,77-90頁.

十日会のメンバーとして,こぼればなしに登場する次の面々がいました:

松浦一郎,原島四郎,春日二郎,白戸庸一,朝倉昭,池田圭.

 

 

XXI

 

津田さんの書き込み,ありがとうございます.テレビ高圧整流菅1B3の代わりに12Aのプレートをアタマに引き出したものを使うとは!このような回想をベテランの方々が書いて下さると,大変参考になります.

初期の自作テレビ受像機は静電偏向で,ブラウン管はオシログラフ用の流用でした.近所の電器店でテレビが日除けをして暗くした店頭につけてあって(画面の輝度が低かったから),人が群がっていた.子どもだった小生も.二次大戦前に米国で発売されたモトローラ社の受像機レインボービジョンも静電偏向で,偏向終段菅は水平・垂直とも6SN7でした.戦後の日本国内の静電偏向受像機の例では,高圧は6V6の高周波発振方式,これ用の発振コイルも発売されました.高圧整流はKX142でした.

店頭デモのテレビと言えば,秋葉原・中央通りに都電が通り過ぎると,電器店頭のカラーテレビ画面が乱れた――電車からの磁力でフォーカスが狂う

ので.また,カラーテレビを買うと設置の向きを決めて微調整をする(地磁

気の加減です),と記憶しています.いつ頃からこんなことがなくなったので

しょうか.(その後,カラーテレビ受像機用の消磁器についての書込み何人もの方からをいただきました.)

 

 

XXII

 

ラジオ技術・テレビ技術の学校,ラジオ技術の通信教育といったことも調べました.戦後のこの種の学校全体で,推定で総計20万人前後のテレビ修理技術者が養成されました.ある大手のテレビ技術学校では,年間の修了者数合計が3千人に達した年もありました.

ラジオ・テレビ技術学校が繁栄したのは,受信機・受像機には故障が付きものだったからです.ラジオ・テレビが故障したら,買った店に修理を頼む,電器店はラジオ・テレビ修理業でした.戦前にラジオ商のためのJOAK技術者資格試験がありました.戦後には通商産業省認定によるテレビジョン受信機修理技術検定試験があり,街の電器店にはテレビ修理技術者が必要でした.テレビ修理ができればメシが食えた.それでテレビ技術学校へ行く,とい

うわけです.

テレビが映っていないと毎日の生活が成り立たなかった?時代です.修理サービスマンへのニーズは大きかった.各メーカーは,受像機の新機種を発売するたびにそのサービスマニュアルを系列店に配布しました.米国でも日本でも,全社全テレビ受像機回路集といった本が発売されました.

セットメーカーのうちで松下電器は,テレビキットを大量につくり,社員たちに組み立てさせました.テレビ修理業はセットメーカーの系列になっていて,また,松下のテレビは他社とちがう300mA真空管を使うフィリップス式回路であったので,同社は早急に自前で系列の修理会社の技術者を多数訓練する必要があったのでしょう.社内にテレビ技術学校を設けたメーカーもありました.

戦前期のラジオ技術の学校として,大井脩三の東京ラジオ技術講習所(神田三崎町.富士製作所の富田潤二もここで学んだ)などがありました.大井は,戦後には池袋の東京テレビ技術専門学校の校長を務めました.新宿・大久保に日本高等テレビ技術学校がありました.名古屋のテレビ学校についても,調べました.

これらの学校は各種学校です.実技を身につけさせ資格試験に合格させるための学校であり,生徒と就職口のニーズをキャッチすべく,教える分野や校名を自在に変えます.テレビ学校がマルチメディア学校や自動車技術学校になったり,です.中央線の電車に乗って新宿・大久保を通り過ぎるたびに,学校の看板を見て,ああ今はこういう名前なのだな,と思います.ラジオ・テレビ学校がその後に大学になったところもあります.この種の学校の経営者・教員は,ぬるま湯の大学とちがって,毎日の努力が大変でしょう.“自分だったら,つとまるかな?”と,小生は思ったものです.これらの学校に

通った方やその先生たちの経験談を聞くことができれば,ありがたい.

日本高等テレビ技術学校には,石橋俊夫さんが晩年に務めていました.NHK技研で石橋さんは,TVK(テレビ部品技術研究会)を指導しました.氏は“日本のテレビ受像機の父”と呼ぶべき大功労者です.NHK関係でテレビ受像機関係の実質は全部石橋さんがやったにちがいありませんが,いつも三熊文雄氏の名が石橋さんの上にありました.これも組織の論理か.石橋さんは,NHK技研退職後にはM社に入りました.テレビ受像機に力を入れた同社なのに,氏は然るべきポストにつきませんでした.所詮,“外様”だったということでしょうか.

東京テレビ技術専門学校(池袋)の校長を務めた方にも,インタビューしました.東北大卒,もうお歳でもあり,古武士のような風格の方でした.次のような話を聞きました.電子機器のIC化・モジュール化が進み,その解析や修理が困難になりました.先生の元・教え子が方々のメーカーにいて,ICやモジュールの内部について情報を流してくれる,これが大変役に立ったそうです.また,大メーカーにとって他社の機器内部の解析が難しくて手に負えない場合,街のベテラン技術者に頼む,ということもあったでしょう.経験を積んだ技術者の力を借りるわけで,実力では彼らは大メーカーの社員技術者よりずっと上です.

学校にとって中興の原動力になった校長がオーナー理事長に疎まれた例もあります.某大手テレビ技術学校の校史を見ると,見事に元校長の名が消されています.ソ連共産党公認のロシア革命史におけるトロツキーと同じでしょうか.各種学校は家族経営みたいなもので,理事長独裁です.各種学校は日進月歩の技術と社会の変化に応じて看板も内容も変えていかねばなりませ

んが,これを先導できる人物が理事長一家にいるわけではありません.そこで専門家を迎えます.学校が繁栄してくると,もし彼が反乱を起こしたらと心配になる.パージする.これを繰り返して,有能なスタッフを追放する.残ったのは忠実に数十年つとめてくれて,繁栄の原動力となった現校長です.彼は本当に大丈夫なのだろうか,仮面をかぶっている,叛乱の機会を待っているのかもしれない.ナンバーツーが背いたらすべてが崩壊する.造反の気配は毛ほどもない.だからこそ怪しい.疑念は募るばかり.先手を打って追放! すべては人間の業,諸行無常です.

 

 

XXIII

 

テレビ技術資格試験・資格証の経験談と画像の情報を書き込んで下さって,ありがとうございます.これら証書は貴重な一次史料です.ぜひ大事に保存されますよう.

 

ラジオ教育研究所の通信教育については,力を入れて取材しました(下記拙稿があります).戦後,ラジオ受信機は故障したものばかりで,生産・供給は不十分,故障修理しても直してくれるところがない.そこでラジオ自作と故障修理の技術が求められました.結核でサナトリウムに入っている人が,ラジオ修理ができるので患者仲間や看護婦さんに(お医者さんにも)モテたそうです.こういうニーズは,都会だけでなく地方まで,全国で大きかった.そこで,受信機技術・故障修理の通信教育や前述のラジオ技術学校が盛んだったのです.『ラジオ科学』の柴田寛も,ラジオ技術の通信教育事業をしました.

学生がラジオや電気器具の修理アルバイトのクラブを作った(東大第二工学部の電気相談部)こともあった.(電気ではありませんが,小生の学生時代にはふすま張りや謄写版印刷のガリ切りといったアルバイトもあった.今から見ると,貧しくて健全な時代だったでしょうか.)

小生がこれら通信教育・学校に関心を持ったのは,日本に電気技術者は何人ぐらいいたのか知りたかったからです.文部省統計によって推定すると,戦後・1998年までの大学・工業高校ほか電気の学校・学科の卒業生数(通信教育やラジオ・テレビ技術学校の年間修了者は含まない)は累計で約3.2百万人,1966年〜1998年には毎年7万人以上です.これは,大きな数字です.1997年には,同世代(20歳人口とする)男性の24人につき1人が電気技術者として教育されたと推定されます:下記拙稿.こういった人々は.市民・社会の科学技術リテラシー・電気リテラシーというべきものに役立っているにちがいありません.これも,社会における我々電気屋の存在理由です.

戦前・戦後のラジオ・テレビ技術学校ほか各種学校や通信教育は,正規の学校教育ではなく,社会教育の一部です(博物館も社会教育に属します).これらで学んでも学歴にはならないので,とかく一般社会で低く見られ

――”永続教育とか生涯教育とかキレイな言葉で呼ばれるようになったのは,近年のことです.文部省関係の方に教えられたのですが,戦前の文部省では社会教育担当部局は傍流ではなく主流であったそうです.ホワイ? ずばり,“皇民教育”のためです.これは,進学率に関係しています.戦前に旧制中学(男子の場合)に進学できる者は少数で,一種のエリ−トであり,現在の大学進学者より“上”だったでしょう(中学を出ていれば,どこでも“ちゃんとした人”と見られたのです).とすると,残りの多数の人々をどこで教化する? ・・・国民統御・皇民化のためには学校教育だけでは不十分で,社会教育の方が重要であった,ということです.

戦前の通信教育の方式は講義録頒布風だったのですが,戦後,米占領軍の指導(強制? 担当はネルソン大尉)によって社会通信教育として面目を一新しました(ガイドブックを導入する,など).戦前・戦中の通信教育の歴史を調べているうちに,当時の文部省のお役人が熱心にこれに取り組んでいたと気付きました.その時はちょっと不思議に思いました.上記文部省の方の言で腑に落ちました.戦後の通信教育の隆盛,これはポツダム通信教育であったとしても,また,戦前・戦中からの文部省の努力のたまものであったのです.

今の後期高齢者のさらにお母さん世代の多くが,編み物や染め物,洋裁等々の通信教育のお世話になりました.きれいな色の毛糸がない,染料が手に入らない,植物や花を摘んで来て,また,紅茶で糸を染めたものです(小生の母も).女性対象だけでなく,ペン習字,トレース,校正等々,いろいろな通信教育があり,新聞の広告欄にいっぱいでした.いまでも,校正の通信教育などの新聞広告を見ることがあります.

ラジオ技術の通信教育からラジオ屋・電器店等へと,プロになった人もいました.ラジオ工房掲示板の皆さんにも,ラジオ技術ほかの通信教育のお世話になった方がいるでしょうか.当時の思い出など,ききたいものです.

ラジオ教育研究所の通信教育は,のち,電子技術教育協会・電子文化研究所と改称して行うようになりました.同時に,数十種目の通信教育をそれぞれ別個の社名でやっていました.ニューデザイン教育協会といったような名ですが,連絡先・所在地はどれも同一です.業界の様態ですね.新宿区大京町の本部に,五十棲吉巳という方を訪ねました.当初は畑違いの若造が何をしに来た?という感じでしたが,ラジオ教育研究所についていろいろくわしいことを教えてくれました.社史のような『文部省認定社会教育実勢団体財団法人ラジオ教育研究所通信教育30年の歩み』の校正刷を見せていただきました.これは,結局は刊行されなかったらしい.ここで聞いた話も含めて,ラジオ教育研究所の諸人物像は大変に面白い.当時の文部省のようすも知ることになり,勉強になりました.

 

- ”戦後のラジオ・エレクトロニクス技術通信教育の歴史――ラジオ教育研究

所の通信教育,『科学技術史』(日本科学技術史学会),5号,2001年,41-96頁.

- ”電気技術者は何人養成れたか――文部省統計にもとづく戦後55年の分析,『電気学会論文誌』,122A巻,2002年,898-905頁.

 

 

XXIV

 

ラジオ・テレビ技術の通信教育の経験などについてレスポンス下さった皆さん,ありがとうございます.ラジオ教育研究所(ラ研)の通信教育の受講者にはわずか少数の人しか取材できなかったので,書込みには本当に感謝しております.ラ研は講師も教材も充実していたという印象です.乃至(ないし)ですか! ラ研の教材で用語や字が旧いのは,ラ研創立グループのひとり伊佐進が戦中(あるいは終戦直後)につくった教科書をラ研に流用したからかもしれない.

東京電波学園は,NHK技研の杉本哲が関係したようです.ラジオ技術の通信教育は流行したので,クオリティ?なものもあったか.杉本さんには,学生時代にNHK技研を見学したときにお顔を拝見しました.優しい方で,初歩向けに氏が書いたものはわかりやすくて良かった(学園の経営の才があったとは思われない).NHK技研といえば,内田秀男氏,三熊文雄氏ほかにもインタビューしました(上の方の人とその他とのちがいがあるように見受

けました.杉本さんや内田さんはその片側に属する).

 

少し前の三好さんの投稿を見て:テレビ技術学校の組立て実習の受像機は,電源トランス付がふつうだったでしょうか.初心者にいきなりトランスレスをやらせるのは不安です.トランスレスでは600mA300mA真空管というちがいもありますし.また,スターのテレビキットの真空管ヒーターは6.3Vでヒータートランス付・Bはトランスレスで倍電圧整流というのも,全トランスレス方式より扱いやすくて良かったかもしれない.組立配線中にブロックごとにテストすることができるメリットもあったか(全ヒーターが直列接続ではそうはいかない).

小生は,残念ながら,テレビキットは作りませんでした.藤沢市に住んだ伯父の家のテレビは,近所の電気屋が組んだスターのキットでした.真空管ーターはトランスで,B電源はセレン倍電圧整流の,セミ・トランスレス方式です.トランスレスで全真空管ヒーター直列というのは,作業に厄介です(作業中にはブラウン管だけヒータートランスを使うとよいか).ラジオ商は,キットを組み立てて売るだけでなくその後の修理もするのですから,スターのセミ・トランスレスが好ましかったのでしょう,スターのテレビキットは全国各地によく売れたようです.このあたり,スターの佐藤俊の着眼点・手腕でしょう.それだけに,テレビキットへの加重課税は佐藤俊にとって大打撃だったはずです.

 小生の家の最初のテレビは,東芝製でした.トランス式です.(岩渕さんの書込みの東芝テレビと,たぶん同じ機種です.音声検波増幅6BN8,水平偏向出力は6BQ6GTBでなく6GB6,整流は5U4でなく5GK18などで,真空管メーカー東芝の特色が見られる.)プロ野球大

毎オリオンズが西本監督で優勝した後であったか.野球を見るのは4チャンネルですが,この受像機は他チャンネルは良いのにここだけうつりが悪い.チューナーの設計が悪かったのだと思います.大和電気のフジ・チューナー(6RHH2, 6MHH3使用)です.アルプスのチューナーの誤設計(前述)に由来するか? 大和電気は,当時流行の品質管理(QC)でも知られた会社でした.東芝も大和もイ?カゲンなものだ,当時の少年の感想です.

 

 

XXV

 

JP1BTBさんの書込み,拝読しました.杉本さんの著者は,国立国会図書館サーチで検索(著者杉本哲とタイトルラジオ)すると,同図書館や全国の図書館に52件所蔵されているとあります.出版社は,ほとんどが山海堂です.区立図書館などの公共図書館から申込んで借りられるかもしれません.インターネットで読めるとあるものもあります.これらの本はよく売れたようで,杉本さんの人気がうかがわれます(杉本さんの場合も,お書きになったものとご本人に会った印象とはずいぶんちがいました).

 

戦前に,ラジオ技術のリーダーとしてスーパーの大井,短波の高瀬と言われた時期がありました.大井脩三については前述しました.大井,高瀬芳卿の二人ともラジオ史上で重要な人物ですが,経歴等の詳細はわかっておらず,小生にとっては伝説の人です.ラジオ工房掲示板の皆さんから何か教えていただければありがたい.高瀬は,逓信官吏練習所の技手をしていたベテランで,高瀬無線研究所・東京短波研究所を主宰し,ラジオ技術の通信教育やラジオ・テレビ技術学校にも関係した人です.南波十三男さんは高瀬氏と親しかったようです.

ラジオ界で重要な功績者であるのに忘れられたり,正当に評価されていない人は少なくありません.望月冨ムさんは,その中でも相当に有名になった

方です.山梨県の裕福な家に生まれ(山梨には望月姓が多い.知事の望月氏いた),東京に来て電機学校で学び,山中無線電機に勤めた後,理化学研究所に入った.多数の発明をして,退職後に自分の発明研究所を作りました.彼の才能を買ったスポンサーがいたのです.望月さんのテレビ・インターキャリア特許があったおかげで,日本のテレビ産業はEMIRCAという外国の企業に莫大なロイヤリティを払わないですんだのです.この件は国会でも取り上げられた.彼は日本のテレビ産業にとって大恩人ですが,忘れられた功労者でもあります.忘れられたのは,大企業や官・学に所属しない自前のフリーランサーであったからでしょう.

逓信省の電気試験所では帝国大学出(東工大も含む)でないと,どんなに業績があがっても逓信技師に昇進できず,技手止まりです(大卒でも).電気試験所の佐野昌一W大卒.SF作家の海野十三.蜆貝介も同一人)は,こういう位階制がなければSFに手を染めなかったかもしれません.技師とお手伝いとではトイレも別という時代もあった.会社で言えば,職員と工員とのちがいです.理研でも同様であったでしょう.まして大卒ではない電機学校卒では,です(いやな話です).理化学研究所で志を得なかった望月さんが退職後にフリーランサーの道を選んだのは,自然なことであったか.裕福な家にまれ,かつ氏の技術に着目した後援者がいて自分の研究所を持てた望月さんは幸せであったと言えるでしょう.氏は,シャガールの絵のコレクターとして日本では一番であったとのこと.コレクションは神奈川県立美術館に寄贈されました.氏がシャガールという画家を選んだ心情は,上記のことから推察されます.望月さんは小生に大変親切にして下さり,研究活動記録の一部など提供して下さいました.望月さんの人と業績について,深く研究して発表するに至らなかったことを申し訳なく思っています.望月冨ムさんは,いろいろあっても,大成して志を遂げた人と言うことができるでしょう.

 

 

XXVI

 

『初歩のラジオ』関係の柴田徹論文について:研究論文には,何語の論文であっても,学術の国際交流のために英文要約(抄録)をつけるルールがあります.宮岡さんの書込みにあるのは,この英文抄録でしょう.また,前述したように,次の柴田徹論文があります.

- ”『初歩のラジオ』の寄稿者たちの経歴とその特質?―雑誌草創期をささえた寄稿者たちはどのような人々だったのか,『科学技術史』(日本科学技術史学会),4号,67-96頁,2000

 

真島拓司氏も,望月さんと共通する点があったように思われます.真島さんは真島宗二とも言い,氏が1951年に設立した新宿・大久保の日本ラジオ技術学校は,日本高等テレビ技術学校の前身です.『初等TV教科書』等の著書があります.戦前に,海軍技術研究所の助手をしていました.新宿近くの参宮橋にあるお宅を訪ねました.ラジオ界の大物であるのに志を得なかった

人という印象を受けました.

地方で神童と呼ばれる子が,ラジオや電気が好きである.家は裕福で,東京へ出す資力は十分ある.東京のどこの学校に行くか.例えばの話ですが,電機学校(現・東京電機大学)があります.電気関係では地方でも知られた学校です(ラジオ・電子工業と重電関係に,同校は優れた技術者を多数送り出しました.中央無線の曽田三郎社長・純夫社長,田山彰さんも電機学校卒です.電気学会会員の学歴では,電機学校・電機大学関係の人が単独最多数のはずです).で・・・この子が卒業して,非常に優秀なので,例えば逓信省の電気試験所に入るわけです(以下,日本放送協会の技術研究所,軍の研究所,理研などでも).日本で最大・最高の国立電気研究所です.学校にとっても大変名誉なことです.ところが,入ってみると,彼は大学出でないのでお手伝い扱いです.定年まで勤めても,そのままです.日進月歩の電気技術において,最先端を拓くような技術・着想は帝大卒でないとできないわけではない.最高学府の学問は,現在進行中のことではなく定説・古いことを教える.先端分野では,どこの学校で学んだかではなく,その人の能力と努力によって良い仕事ができます.こういった状況が彼にもわかってくる.業績を挙げれば挙げるほど,矛盾がひどくなる.彼は新天地を求めて退職する.しかし,国立研究所という大樹の外の浮世にも学歴メカニズムがあり,彼が活躍できる場所は限定されているのです.

こういった少年(才能のある)は,少なくなかったでしょう.端的に言えば,彼(と親御さん)は行く学校をまちがえたのです.学力と資力のある彼は大学(帝大でも)に十分行けたことでしょう.どうしてそうしなかったのか.ラジオ・電気にあこがれて,一日も早く電気専門の学校に入りたかった.電機学校にはこういった少年が集まった.電気・ラジオ技術はそれほど素晴らしくて魅力的だった(この時代思潮は,見逃してはならない点です).電気・ラジオの実技に早く就きたくて,年月のかかるコースには行きたくなかった.学校選びについて大都市と地方との情報格差が作用した,とも言えるでしょう.田舎の素封家には,都会・お役所・大会社の学歴差別などの知識がなかったのでしょうか.今日でもこういった事情があるかもしれません.小生がインタビューした/しなかったラジオ技術者に,真島さんほか該当しそうな方が何人もいるはずです.望月さんは,その中でも結局は成功した人と言えるでしょう.

 

 

XXVII

 

小生の取材が東京圏中心であったのは,自然の成り行きとは言え,残念です.名古屋のテレビ学校を取材したことかがありました.名古屋の白砂電機(シルバー)の白砂允さんをお訪ねしたことも.白砂さんのステレオ装置は立派でした.会社のオーナーですからこれは当然で,三菱6インチ半スピーカーの小生がくらべるのがおかしいのですが.若い時の白砂さんはハンサム・ボーイでした.ラジオ少年であるが学校で電気技術を学んだことのない人が会社を興して成功する例は多くあり,白砂さんはその一人です.朝倉昭さんも,でしょうか.

 以下,ポータブルラジオ,トランジスター・ラジオについて:ポータブルラジオ(真空管式)で最大手のシルバーに,家電トップのM社からOEM生産を依頼してくる.ポータブルラジオ製造工程・ノーハウすべてを見られてしまうことになるので躊躇するのですが,結局は応諾する.そしてすっかり持って行かれてしまうことになりました.こうして,M社自身のポータブルラジオ製造が軌道に乗ります.ただし,シルバーにとって品質管理ほかMから学ぶところもあった,ということです

トランジスター・ラジオ関係の調査では,藤田田(デン)さんからの指南を受けました.氏が有名なやり手であるとは聞いていたのですが,ハンバーガーの氏がトランジスター・ラジオとは? “藤田さんはトランジスター・ラジオムを輸出したから,くわしいはずだと勧めてくれた人がいて,氏のオフ

ィスを訪ねました.著書が何冊か飾ってあって,これを読んでいないと予備知識不足だと,いそいでパラパラめくりました.ユダヤ人に学んだ商法とか,なるほど辣腕です.マクドナルド(ハンバーガー)を日本へ導入した,玩具のトイザラスもそうだとか(トイザラスは当時大変な人気でした.”Toys are us”です).面談では,はじめのうちは何も知らない若造扱いで(その通り),ダボラ風?が吹きました(予期した通り).輸出商の氏は,ハワイへ日系人相手に仏壇などを輸出していても商売は大きくならない,方向転換して,今ではヴィトンが世界中で取引している相手の金額トップがオレだ,ということでした.小生は,ただただ感心するだけ.そしてトランジスター・ラジオ輸出です.ここからはまことに有用な話をして下さり,往時のトランジスター・ラジオ業界事情などをいろいろ聞くことができました.輸出用トランジスター・ラジオは米国人バイヤーに言われて製造を始める一旗上げる業者(全くの異業種からの転入)が多かったので,その跡はもう残っていないことが多い.これこれのことならどこそこにいる何々氏に訊けばよいと指南を受け,その後の調査がずいぶん進みました.コーヒーが出てきて,客用だから,マクドナルドのコーヒーよりおいしいかなと思いましたが,ふつうのコーヒーでした.最後に,マクドナルドの割引券をもらいました.とにかく,デンさんには助けていただき,感謝しています.大変面白く,有益で印象に残るインタビューでした.藤田氏にまつわる話がたくさんあるのですが,紹介すると長くなるので割愛します.氏の著書を見てください.

トランジスター・ラジオについては,おもしろい話がたくさんあります.輸出検査関係,石炭ガラ輸出事件などなど・・・.下記拙稿にも書きました.元A社の土井さんにもお世話になりました.米国へトランジスター・ラジオを輸出する船がパナマあたりを通るときに,高温で電解コンデンサーが劣化したとか.セラミック・コンデンサー調達が間に合わず,容量の大きいコンデンサーを小さく切って使った! セラミック・コンデンサーが都合よく切れるものかどうか? バイパス用コンデンサーで,基板に装着するのに静電容量よりも外形寸法が大事だったのでしょう.電解コンデンサーは長野県あたりで製造された二級品(納入検査でハネられたもの?)を使ったという話も聞きました.とにかく輸出用トランジスター・ラジオは儲かったらしい.

 

- ”ロックンロールとトランジスタ・ラジオ――日本の電子工業の繁栄をもたらしたもの』,『メディア史研究』(メディア史研究会),20号,2006年,

71-87頁.

 

 

XXVIII

 

電解コンデンサーは,あらゆる電子部品の中で最も品質が向上して最も成功したもの,と言えるでしょう.出発点が低かったからです.

戦前から戦後にかけて,電解コンデンサーは劣悪で,材料の純度が低く,パンクがつきものでした.住友電工でしたか,アルミ箔工場で亜鉛も扱っていて,どうしても亜鉛粉がアルミ箔に付着する.アルミ・メーカーにとって電解コンデンサー用は小口需要なので,電解コンデンサー・メーカーの要望など聞いてもらえない.そこで,いくつものメーカーで電解蓄電器研究会をつくった.万国の労働者ではないけれど,団結!です.この研究会でお互いの工場を見学する(見せ合う!)という,ふつうではありえない協働研究をしました.あのM電器がその音頭を取ったのですから,超特別事例です.トランジスター・ラジオが登場して,低電圧・大容量の電解コンデンサーが大量に使われるようになりました.使用電圧が真空管時代には300V程度であったのが10V以下になったのですから,パンクが減ったのも当然です.材料純度の向上,電解蓄電器研究会という業界挙げての努力やNHK技研の指導もありました.

日本ケミコンの創業者佐藤敏雄さんが,『菰の中から』という自伝を書いています.新潟から上京した氏は,電解コンデンサーを作って,どうやってもうまくいかない.考えながら腕組みして川沿いの道を歩いていたら,川に転落してしまったそうです.極言すれば,当時の状況ではまともな電解コンデンサーができるはずはなかった.他の部品とちがって,電解コンデンサー製造は機械加工ではなく化学ですから.知識のある人ならば,電解コンデンサー製造には手を出さなかったでしょう.直截に言って,佐藤さんは地方出で知識がなかったから電解コンデンサーを作った,うまくいくはずはなかったのです.佐藤さんは,お姉様が大変な苦労をして下さったおかげで東京へ出てくることができた,と書いています.(北国の豊かでない農家の若い娘の大変な苦労とは,どういうことでしょう!) これも日本ケミコンのサクセス・ストーリーの一部であり,日本のラジオ史・電子工業史です.

東北大学の平本厚先生(経済史)と同道して,電解コンデンサー技術の権威である永田伊佐也さんを訪ねたことがあります.これは,大変勉強になりました.伊佐也さんはキリスト教徒ですか(イザヤですか)と尋ねたところ,肯定されました.

 電解コンデンサー技術については,永田伊佐也需要家の立場から見た電解コンデンサ用アルミはく,『軽金属』,38巻,1988年,552-558 があります.戦前期の佐藤敏雄氏のようなしろうとではこういう技術分野に無理であったことがうかがわれます.永田氏が斯界で技術を先導した様子も推測できます.

 永田さんのお墓について増田さんの書込み,ありがとうございます.永田

伊佐也さんも天国で喜んでおられることでしょう.

 

フォスターの市川さんからうかがったスピーカ−の話.日本製のハイファイ・スピーカーは著しく良くなったが,欧米製に比べて音に個性がない(たしかにTANNOYなどはよく鳴りますね.好みに合わない人もいるでしょうが).戦前期以来,ラジオ業界はすべて舶来崇拝であったので,スピーカーもひたすら真似であった.ステレオ時代になって日本のスピーカーも良い音を出すようになったのだが,海外の著名スピーカーを聴いては自社スピーカーを試作するので,どうしても似ている匂いが残ってしまう.それでも,次第に個性を持つようになってきた.

試聴室には体調を整えて入るのであるが,大変に疲れる仕事だとのこと.スピーカーの決め手は,コーン紙と接着剤だそうです.接着剤は,今は良いものがいろいろあります.現在でも接着工程はシンガポールの工場で見たように手作業でやるのでしょうか?

コーン紙用パルプは選び抜いて,北欧のどの山のどの斜面のどの方角の〇〇杉,という具合だそうです.超高級ワイン用ブドウの栽培と同じですね.Fostex10cmスピーカーは良い音がするし,箱が小さくすむので,いくつも使用しました.

 

トランス(変圧器類)は,だれが作っても同じようなものができる,作り方も材料もわかっている.トランスを購入する会社も,トランスのコストを知っている.つまり,独自の技術というものが存在しない部品である.それゆえ,新会社が参入しやすい.価格競争になる,買い叩かれる.そして倒産する,別な会社が入ってくる・・・春日二郎さんからうかがった話です.

当今の真空管回路用のトランスはバカ高い.こんな高いものをなぜ買わなきゃならんのだ!と思うが,仕方がない.並四・高一クラスの電源トランスを買ってストックしておくべきだった(B巻線が半波40mAであっても,シリコン・ダイオードでブリッジ整流にすれば60mA位はOKのはず.整流菅用のヒーター巻線も空くので利用できる).ヒータートランスや,7kΩ位の

出力トランス(替コイルだけでも)も・・・後悔先に立たず.

 

 

XXIX

 

コネクター類も,質量ともに著しく向上・成長した部品分野です.コネクターや,プラグ,ジャック,レセプタクル,ソケット類の静止接触部品の用途・種類,使用される場所・業界は千差万別で,これらを算え上げると大変な数になるでしょう.身近なものと言えば,USBコネクターやイヤホンプラグがあります.

戦後期までの丸形コネクターは,アチャラものを真似して作ったのでしょうが,のどかなものでした.製造会社によって寸法が少しちがって,一見全く同じなのにはまらなかったり・・・.その後,欧米の有力会社や各国それぞれの規格のものを日本でも作るようになり,各種・多数のコネクター品目が共存しました.

放送・録音関係等々の業界によってコネクターの種類も異なりました.たとえば,スタジオ関係では踏んづけても壊れない金属プラグとか.デスクトップのパソコンやディスプレーの電源コードコネクターは,必要以上にごつい(扱いにくいだけでなく,意外と外れやすくて信頼できない.あんなに太いキャブタイヤコードは必要ない.)これは,パソコンが家庭用でなく業務用

であった時代のなごりでしょう.

 コネクターは,あらゆる家電品に使われています.半導体時代になって,基板・モジュール・操作パネル等をつなぐコネクターが,多端子(10とか20とか)のものまで,使われるようになりました.1台のPCに,一体いくつのコネクターが使われているでしょう! コネクターのメーカーは,大儲けで急成長したでしょう.

 コネクターは,静止接点です.一度はめたら,そのまま外さずに使う(スタジオ関係ではしょっちゅう着脱するが).リレーのような動接点は,開閉のたびに接触面が削られ蒸発して新しくなるので,接触は確実です(そのかわり,接点金属は消耗する).静止接点はそうはいかない.静止接点でも,比較的に高電圧・大電流のものは,バネ圧が強く,電位差による火花・溶着があって,導通は確保される.半導体回路の小電圧・微小電流の多端子コネクターで導通不良が起きないのは,不思議なくらいです.それだけ品質が改善されたのです.静止状態で長い月日のうちに,空気中のガスが接点金属と反応して接点表面に非導電性被膜ができることがあります.コネクターを密閉というほどではなくても囲っておくのが,対策として有効でしょう(パソコン筐体だけでも効果はあるでしょう).

 リレーのような動接点では,接点の溶着・蒸発・消耗が問題です.パソコ

ンの内部で,電磁リレーがしょっちゅう動作しているような,小さい音がします.リレーの劣化・消耗はおきないのでしょうか? リレーの場合も,カバーケースで覆うのが,劣化防止に役立つようです.

 話は少々ちがいますが,コネクター類が複数ついている機器からプラグをはずすとき,どのプラグを先にはずすべきか,まちがえると事故・故障につながることがあります(オーディオでピー・ギャー音を出すと,スピーカーが飛びます).端子がペアで2つある場合は,つなぐときはコールド(アース)側端子が先,外すときはホットが先,これは常識です.このルールになるように作ってあるコネクターもあります.

 (コネクター等の着脱は機器パワースイッチ・オフで行う.これももちろん常識.ところが,何事にも例外があるので,小生が研究したEMCEMI

障害の場合,電源オン(動作状態)での方が安全というケースがあります.

これは電源オフではシリコン半導体回路の各所が絶縁状態なので,外部から侵入した異常電圧がアースに落ちない.オンであればアースへの導通路がたくさんあって,異常電圧が入力側の半導体ゲートまで行きにくく,比較的安全です.電源スイッチ・オフだから安全とはかぎらないのです.EMCEMI専門家の多くがこれをわかっているかどうか?)

 宇宙衛星ほか兵器・工業用機器にもコネクターが使われます.特注して高信頼性コネクターを作らせる.ところが,一般用の量産品のコネクターの方が品質が安定していて信頼できる.名人の作ったものよりも量産品が上というわけです.値段もずっと安い.こういうことをやるのが日本の強みです.(米国等の軍・極地探検隊の装備にファスナー(ジッパー)が多数使われますが,ほどほどの用途には何とか国製,肝心な部分には日本のYKK・・・という話を聞いたことがあります.日本製品の信頼性伝説です.)

 コネクターのメーカーには,数社,取材しました.これらの会社は,のどかコネクターの時代から現在の半導体・デジタル時代まで,技術の革新をこなし,あるいは先導してきました.小生は勉強させていただきながら,この過程を深く研究するに至りませんでした.関係各社・各氏にお礼とお詫びを申し上げます.

 小生の大学の恩師(教授)は,電気接点の専門家でした.小生は,門前の小僧の知識で以上を書きました.正しい解説をその道のベテランが書いて下さるとありがたく思います.(研究室で金接点の実験研究を助手にやらせたら,ストックしておいた金だかパラジウムをあらかた飛ばして(蒸発させて)しまった.先生は渋い顔をなさった・・・とか.)

 

 

XXX

 

 コイルの結合度の話:木賀忠雄『アマチュア局用受信機の設計と製作』CQ

出版,1962年の49頁,第トル.2.40図あたりも,関連しているでしょう.この図は,中間周波トランスの結合度の説明図として明解です.同図の日本版の最初はこぼればなしGに紹介した川上正光『電子回路 II』共立出版,1955 141頁,第1044図でしょうか.この図は,おそらく川上氏が作ったのではなく,米国のターマンあたりを写したのでしょう.

F. E. ターマン『ラジオ工学』全4巻,日本放送出版協会,1949-1950年;

原著改訂第3版,日本放送出版協会,1952-1953年,および,同『基礎ラジ

オ工学』ラジオ科学社,1955年があります.1949-1950年の『ラジオ工学』

は,国立国会図書館にある.

 

 

 

XXXI

 

ラジオ・無線と政治・プロパガンダ・情報活動というと,ムズカシイ話題でしょうか.これがラジオの本来の社会的機能なのですが・・・.日本のラジオは,米国の場合とちがって政府管轄下に始まったことがその性格を規定しています.

まず,南米の有線電信から.南米の小説を読むと,電信の話が出てきます.広大な密林と原野になぜ電信線が? 内戦・匪賊討伐・軍隊派遣などに必要だったのです.

無線では,同じ南米で,RCA社とバナナの話があります.RCAとバナナ,ホワイ? RCAは,設立時には無線機器製造ではなく通信業務の会社でした.RCA社を共同設立した3者のうち,一つがユナイテッド・フルーツ社(現チキータ)です.南米北部のベネズエラのオリノコ川流域で,同社は大規模なバナナのプランテーションをやっていました.バナナの輸送,出荷,熟成,収穫などの連絡のために無線を使ったのです.バナナはナマモノですし,有線電信では中継局が入るので即時通信というわけにはいかず,途絶の心配があって復旧には日数がかかります.無線が好都合であり,これを必要としたのでしょう.これが,“RCAとバナナのわけです.

日本では“玉音放送”・“玉音盤”の人気が衰えません.日露戦争・日本海海戦・信濃丸の無線電信というトピックもあります.

録音関係では,ナチス・ドイツ時代のテープレコーダーがありました.ヒトラーの演説を録音したテープは各地の放送局に急送され,演説が放送されました.米軍はヒトラーの居場所を突き止めて爆撃しようとしていたのですが,方々から彼の演説が放送されるので場所を特定できなかった,という話です.当時,米国ではテープレコーダーは実用化されていなかったのです.

S氏と米占領軍による無線傍受業務の話をこぼればなしKに書きました.冷戦時代の短波放送ジャミング合戦を記憶している方もいるでしょう.FENで英会話の勉強をした人もいました.FENも宣伝戦略(謀略放送)の一つです.

ゾルゲ事件のクラウゼンの無線送信機を復元模造した方がいます.日本ラジオ博物館の岡部匡伸さんです.立派な研究だと思います.送信機は,その都度組み立てて使用後にバラすというもので,終段管プレートには交流をそのまま印加する簡易な回路で(5060Hzで変調されたA2電波になる),なかなか考えた設計です.

ゾルゲ事件等に関連して,各国駐在の大使館の無線通信設備がどんなものであったか,興味があります.国際有線電信はベルリン東京,モスクワ−東京ほか,どれも必ず途中のどこかでイギリスの海底電信線を経由する.秘密保持など不可能です.大使館には無線通信が不可欠であったはずです.これを調べる,大使館内の無線室の位置・間取り,送信機・受信機,アンテナ,電源,スタッフ,操作方法,操作時刻などなど.もちろん暗号や,人間が通話したのかどうかも.さて,研究はどこから始めたらよいか,ちょっと考えても関係する資料・情報の断片も思い当たりません.これはおもしろくて非常に重要な研究トピックであると思います.いまの小生にはこれに取り組む時間・力がありません.若い研究者どなたかがいませんでしょうか.

駐在公館の無線室というトピックは,日本の在外公館だけに限りません.たとえば日本駐在のイギリス大使館の無線室です.第二次大戦期の日本駐在イギリス大使館の無線室の概要は,日本の諜報機関が多少とも把握していたはずです.この諜報の記録を発掘することが可能でしょうか? ・・・赤坂にある米大使館の無線室は,などと言おうものなら,即,CIAに襲われるかな.くわばら,くわばら,君子危うきに近寄らず.

某大学の危機管理学部教授で元・防衛庁,専門はインテリジェンス(諜報)という人が『ラジオの歴史』を見たのか,出版社の社員(法政大学出版局ではない)を介して小生に近づこうとしたことがありました.これもアブナイでしょうか.

スパイ関係で,秋葉原のジャンク屋が関係した事件もありました.ソ連の諜報員が米軍基地からジャンクを仕入れているジャンク屋に接触して,米軍の電子兵器の情報を得ようとしたのです.日本の兵器産業も,米軍の制式機器が何に決まりそうか知ろうと,ジャンク屋に接近して同じようなこ

とをやっていました.

 

 

XXXII

 

ラジオのキライな人の話.永井荷風はラディオ蓄音機の流行歌(はやりうた)の音が大嫌いでした,とくに夏場には窓を開け放しにしてラジオをかける家が多く,亀裂(ひび)の入(い)ったような鋭い物音に堪えきれず(口実でしょうか)自宅を離れて,向島・寺島町・玉の井の私娼窟(滝田ゆうの漫画にある)へ出かけるのでした.当時の再生式受信機はピー・ギャーと発振するし,ひどい音であった.これには,荷風が日本放送協会のプロパガンダ放送を嫌悪したからだ,という解釈もあります.いやいや,そんな理屈よりも,荷風は江戸文化に憧れて,その江戸の町にはラディオの音がなかっただけのことでしょう.荷風は太平洋戦争中の大本営発表ラジオも嫌ったか.終戦時の玉音放送を荷風はどう聴いたでしょうか(荷風自身は何か書き遺しているでしょうか?).

 

 赤塚不二夫の《天才バカボン》でバカボンのパパとハジメちゃんがテレビを修理することを,『ラジオの歴史』に書きました.秋本治の《こち亀》には短波ラジオが出てきます.スカイセンサー5900や,クーガー2200.両さん巡査がラジオマニアとは!『週刊少年ジャンプ』2012528日号です.

 

 

XXXIII

 

 名古屋・中京は,トランジスター・ラジオやトランシーバーなど米国向け輸出電子機器の中小企業があって,その基地の様相がありました.これらの会社・工場は,ブームを当て込んでの一旗組です.米国バイヤーの求めに応じたり,OEM生産など.名の通っていて歴史のある会社ではない.機動的で,ブームが過ぎると撤退し転業する.それゆえ歴史・記憶に残りにくいのですが,こういった会社・工場が日本の電子工業の成功と日本の繁栄の原動力の一部であったのです.このあたりを実証研究する研究者が出てくることを期待したい.東京と大阪だけじゃない,電子工業に関しては名古屋を調べないといけません!

 トランジスター・ラジオだけでなく,輸出用トランシーバーもとにかく儲かったらしい.名古屋でなく東京の人ですが,トランシーバーで儲かって儲かって,銀座で豪遊したといいます.米国でトランシーバーが売れたのは,長距離トラックが,警察の取り締まり情報の交換など,相互の連絡に使ったからだそうです.

 白砂電機(シルバー)の創業者白砂允さんは電気の知識は独学で,名古屋で知られたラジオ少年でした.島田聡少年も,広島の電機商のあいだで有名でした.島田さんは東京に来て秋葉原を見て,なんだ,この程度かと思ったそうです.名古屋や広島のこういった往時のラジオ店感覚を調べて分かるならば,面白いと思います.

 大阪で戦前にスピーカーの有力メーカーであった戸根源(戸根無線),その元オーナー戸根康夫さんを訪ねました.電子工業・ラジオ工業を調べたいという文系大学院生と同道して,大阪に行きました.このN君と駅で落ち合ったら,茶髪です.“茶髪ですね”と言ったら,きのう染めたとのこと.相手は高齢の人なのだから,昨日でなくインタビュー後に染めればよいのに,と思いました.今とちがって,茶髪が白眼視された時代です.幸い,戸根さんは彼を見ても変な顔をされませんでした.N君は電子工業・ラジオ工業史の立派な研究をして,今は大学の先生です.氏の著作について,後述します.

 戦後の北九州や広島の電機・電子工業の歴史も知りたいと思います.朝鮮戦争で日本は米軍の兵站基地となり,敗戦からの復興を果たしました.朝鮮特需です.朝鮮半島に近い北九州・下関や,軍都であった広島(大本営が置かれた時もあった)・呉の工場は,米軍の通信・電子機器の補修を行ったと推定されます.その過程で,米国の進んだ技術を学び習得した.戦争の需要・要請ですから,タダで技術を教えてもらったようなものです.これが日本の電子工業の発展と経済高度成長の基盤を準備した.広島の島田聡少年の背景に,このような事情があったと思われます.北九州・広島などの米軍電気・電子特需を調査・発掘してくれる研究者はいないでしょうか――北九州や広島の大学院生でも.ラジオ工房掲示板の皆さんには,経験や見聞をお持ちの方はいらっしゃらないでしょうか(年齢からして今はもう無理か?).

米軍無線機器の部品技術について.中間周波トランスのアルミ深絞りのケースは,戦前の日本ではできなかったと聞きました.日本軍航空機搭載の機器の重量増加となったか.日米の技術の差は大きかった.他方,米軍のウォーキートーキー(トランシーバー)のmT菅ソケットはウェーハー型だったように記憶しています.振動等を考えると,モールド型であるべきか.数十年後の眼には,米軍の部品も,案外,安手に見えるところがあります.ウェーファー・ソケットの方がモールド・ソケットよりもmT管が割れにくいという理由があったのかもしれません.ソケットに太い線で配線するとmT管挿入時にクラックが入る,線をハンダ付けするときにはボケ球を挿しておいて行う,といったことが1950年代にありました.その後,タマもソケットも改善されて,良くなった.ミツミのソケットが決定版になったか.

 

 

XXXIV

 

PDC加藤さんの書込み,拝読しました.子どものときに部品などをもらうと,宝物です.小生も,知り合いのお兄さん(大学生)から古い真空管(UX222など)をもらいました.今まで保存しておけばよかった.222は,初期のスクリーングリッド四極管で,24Bの前身でしょうか.プレートがイボイボのメッシュ状,銀色に光っていました.

 

 ラジオ・テレビだけでなく電子部品の調査研究には,工業会・学協会などの公的機関の方々にもずいぶんお世話になりました.テレビ受像機キットの詳しい生産統計を見せてもらった,など.学協会の事務局OBの方々からのご教示は,大変役立ちました.日本電子工業会(EIAJ.現電子情報技術産業協会/JEITA)には,理事会の議事録がズラッと並んでいました.貴重な史料ですが,先行き廃棄になるだろうなと思いました.保存すべきです,しかし小生の力ではどうにもなりませんでした.

 

インタビューに会社の人同席の例:創業社長にインタビューした際に,“勉強になることだからキミもそこで聴いていたまえ”と言われて社員が陪席したようなこともあったかと思います.これは,発言監視のお目付社員同席とはちがいます.

シャープのテレビ受像機開発陣の服部正夫さんに会ったときは,インタビュー場所の喫茶店までシャープ社員が来ました.これは,ご本人がパーキンソン病で身体の動作が定かでなく,その介添え役で同席したものです.国産最初の受像機を発売した早川電機(シャープ)では,研究部長の笹尾三郎が受像機開発のリーダーで,受像機の出張修理には自らも行ったとのこと.修理は視聴者のお宅へ上がって奥さんに会い,床の間のようなところに設置してあるテレビに触るのですから,同社の出張修理要員には毎朝,服装,靴,ハンカチまで笹尾さん自らが検査したそうです.受像機開発だけでなく修理サービスにも力を注いだ早川電機は,メーカー別受像機年間生産台数が1957年までトップでした(テレビ放送開始は1953年).小生のインタビューには,亡くなった笹尾さんの代わりに,部下であった服部さんが体の不調を押して出てきて下さったのです.シャープがそのテレビ開発の歴史を非常に大事にしていることがよくわかりました.前述の発言監視の会社とはちがいます.

修理ネットワークの整備は.受像機メーカーにとって非常に重要でした.松下電器は,他メーカーとちがって300mA真空管方式であったので,自前で修理サービスマンを養成することがとくに必要であったでしょう.また,ある会社のテレビは感度が良いので,地方までよく売れた.そのため遠隔地にサービスマンを派遣しなければならず,会社にとって重い負担であったとのこと.

 

 

XXXV

 

 まだまだ書きたいことがありますが,少々堅い話でこぼればなしを締めくります.

 『ラジオの歴史』を書くようになった動機:一つは自分がラジオ少年であったからです.小生程度のラジオ少年がラジオの歴史を書くなんておこがましいのですが,書きたかった.テレビ受像機開発における自作ファンの貢献という事蹟が埋もれてしまうのは非常に残念だと語った石橋俊夫さんの表情,それが強烈な印象となったからでもあります.小著『ラジオの歴史』は,主観と感情移入があるので,歴史書としては落第でしょうか.たとえ落第であるとしても,あ,僕はここにいたんだと元ラジオ少年の読者に思ってもらえればうれしい.

もう一つは,ラジオ技術者を含む電気技術者の社会におけるステータスを高めたいからです.諸外国ではエンジニアと言えば社会で尊重される.日本ではどの会社(大会社)に勤めていると言わないと通用しない.ミチビシですとか,タク(良人)は〇芝ざあますといった具合で,電気技術者ですとは言わない.また,初任給も,小生が大学を卒業したころですが,電機産業は化学の会社などに比べて23割低かった(今はどうでしょうか?).電線メーカーに入った同級生は高給でした,電線は株式の分類では電機でなく金属ですから.電気技術者自身のあいだでも,社への帰属意識が優先し,電気技術者としての仲間感・連帯感は薄い.電気技術者が社会を支えているという自負も弱い(専門職のproffesionalizationという歴史学の眼で見ると,

電気技術者はprofessionではない.)その結果,社会では誰も電気技術が社会を支えているなどとは言わず,電気技術者の給料は低い.小生は,電気技術者がどのように仕事をしてきたかの歴史を書くことがこの状況を変える(給料が上がる!)のに役立つ,と考えました.

電気技術・電気技術者の歴史を自分で書くだけでなく,文科系の科学技術史家や経済史家・経営史家に書いてもらう,そのために史料を集めて提供する.日本の技術史・工業史というと繊維産業や造船等は書かれていますが,電気関係は少ない.あっても電気事業(電力事業)などで,電子技術関係は稀です.繊維や造船,電気事業の技術はともかく,電子技術は文科系の研究者にとって難解なので敬遠されるのでしょう.そこで,文科系の先生に電気・電子技術を伝授して――それこそ個人教授をする――電気技術史・電気工業史を先生のライフワークにしてもらうのです.

このようにして始めた努力の結果か,何人かの先生にこの分野の歴史を書いてもらえるようになりました.まず,東北大学経済学部の平本厚教授です.インタビューに平本先生と同道したことが何回もあります.氏は,テレビ受像機工場を見学しているうちに,ブラウン管用偏向コイル(鞍型で,コサイン二乗巻きとか言っていた)の巻き方を覚えてしまったというのですから,何というか,エキスパートです.小生は電気屋ですが,偏向コイルの巻き方なんかわからない.平本先生の主著は,次の通りです.

- 『日本のテレビ産業?―競争優位の構造』,ミネルヴァ書房,1994

 - ” 「並四球」の成立 (1) 戦前日本のラジオ技術革新,『科学技術史』(日

本科学技術史学会),8号,2005年,1-29

- ” 「並四球」の成立 (2) 戦前日本のラジオ技術革新,同上,9号,2006

年,1-36

 - 『戦前日本のエレクトロニクス――: ラジオ産業のダイナミクス』,ミネ

ルヴァ書房,2010

- 『日本におけるイノベーション・システムとしての共同研究開発はいか

に生まれたか――組織間連携の歴史分析』,ミネルヴァ書房,2014

 - “高度成長期電解コンデンサ産業と中堅企業の形成,『経済学』(東北大学

研究年報),Vol. 80, No. 12024年,19-41

ナミヨンについて論文を書く先生が世界中のどこにいます? ありがたいことです.上記の電解コンデンサー論文は,大変な力作です.こういう偉い学者と少しでも交流できた,小生は,まことに畏れ多いというか,幸せです.(なお,電解コンデンサーについてはXXVIII.でもふれました.)

南山大学のN中島裕喜教授は,平本先生より若く,トランジスター・ラジオ輸出の歴史については第一人者です.中島先生の著作は以下:

- ”トランジスタラジオ輸出の展開?―産業形成期における中小零細企業の

役割を中心に“,東洋大学経営論集,79号,2012年,73-94

- 『日本の電子部品産業?―国際競争優位を生み出したもの』,名古屋大学

出版会,2019

- ” 京セラの電子部品事業史とその周辺?―1980 年代までの動向を中心

,『稲盛和夫研究』(稲盛和夫研究会),2号,2023年,21-39

 日本の電子工業の歴史については,平本・中島両先生の著作が基本文献です.平本先生,中島先生に,心からお礼申し上げます.さらに,先生方のお弟子さんたちが電気技術史・電気工業史を研究して下さるよう期待します.平本先生がエレクトロニクス技術の微細まで理解された,そのプロセスがお弟子さんたちに継承されることでしょう.ラジオ工房掲示板の皆さんにも,こういった研究者の助けになることがあったら(史料提供,技術細部をていねいに説明など)ご協力をお願いいたします.

 

 最後に:掲示板に長々と書いてご迷惑だったかとも思います.内尾さん,故・曽田さん,皆さんにお礼とお詫びを申し上げます.『ラジオの歴史』の取材・刊行でお世話になった方々すべてに,心から感謝いたします.

 もう一言.『ラジオの歴史』には図・写真多数があり,ラジオ工房掲示板の皆さんの記憶をよみがえらせて楽しんでいただけると存じます.図版をたくさん収録できたのは,法政大学出版局の秋田公士さんのおかげです.この意味で『ラジオの歴史』は同氏の作品です.秋田さんに心からお礼申し上げます.


厚浦