終戦(昭和20年)前後の電力事情話とラジオ(思い出話)





上記のラジオは昭和10年ころ作られたものです。
メーカー名がありませんので、おそらくラジ屋さんの自作でしょう。

ところでこのラジオには下記のような合格証が貼られています。
これは何を意味するかわかりますか?。
ホームページを作ってから、皆さんの紹介しようと捜していた合格証です。
やっと見つけたのでご紹介します。


ラジオ試験合格証

試験年月日 17年3月 ?。



昔は 家庭用電力は従量制と定額制があったようです。
この制度は何時まであったか不明ですが、自分が子供のころ(昭和20年代中頃?)までは少なくとも存在していました。
実家は商売をやっていましたので、当然積算電力計が付いていましたが、一般の住宅ではメートル(積算電力計をこう呼んでいました)が付いていない家もあったようです。
これらの家庭では40W電灯 2灯+ラジオ(消費電力による)だと月 いくらと言う契約です。
定額制の家庭では家庭にメーター(積算電力計)が付いていないので、ラジオの消費電力を測定して料金の算定をしていました。
安全のために絶縁試験も大事でしょうが、消費電力の測定が主目的のようです。
細かな決まりは残念ながら知りません。
上記の合格証はこの証です。

1度だけ知り合いのラジオの試験に立ち会った事があります。
電力会社の支店に持ち込み、測定してもらいました。
大きなメーターでVAを測定していたと記憶しています。
半世紀以上前の話です。
なお定額制では電灯は点灯しても消しても同じ料金です。
若しかしたら電球も規定のものが供給されていた可能性があります、有料 無料の区別は残念ながら知りません。

戦後すぐには電気パン焼器(電気分解で熱を出して焼く)を父が自作して、何回か使いました。
この当時は工場が壊滅状態で、電気は余っていたようです。
でも すぐに電力事情が悪くなり、使えなくなりました。
酷い時にはローソク送電と呼んでいましたが、電圧が50Vくらいに落ちて、街中が暗くなりました。
唯一明るかったのは中津駅くらいでした。
何時の時代でも賢い人はいるもので、50V用の電球も売り出されましたが、電力会社もさる者で急に電圧を元に戻しますから、電球はすぐ断線です。
こんなわけで皆諦めていました。
停電も日常茶飯事で電柱のヒューズも良く飛びました。
最近は聞いたこともありませんが、当時は電柱にヒューズが付いていました。
停電になると電力会社の方が交換に来ました。
夕食の時間帯は電圧が下がります、この為にオートトランスなるものが売り出されました。
これは単巻きのトランスでSWの切替で、60V 70V 80V 90V 100Vなどのタップをトランスから出し、入力が下がっても100Vの出力が得られるものです。
ただ夜電圧が低くなったときに利用するには良いのですが、朝電圧が正常になった時に設定がそのままだと悲劇が起こります。
真空管ラジオで85Vや90Vのタップが付いていて、切り替えられますが、これは当時の名残でしょう。
戦前のラジオにはこの切替は付いていないことが多いです。
高1は電圧が下がっても音は小さくなりますが、受信できます。
一方 スーパーは発振が停止したらおしまいです、このため、6WC5のヒーター電力を増加したり(6SA7の0.3から0.35Aに)、
6WC5だけヒーター電圧を7Vにしたほうが良い云々の話までありました。

なお九州でも中津市近辺は終戦時は50サイクルでした、戦後60サイクルに変更になりました、
時期は明確では有りませんが、終戦から2〜3年経過した頃ではと思います。
家にあったマツダの電気時計が無茶苦茶に進みだしたのを記憶しています。

2004年4月4日
2006年7月1日




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