いろいろな思い出 

ラジオ工房 について

「大昔のラジオ少年」の半世紀にわたるガラクタ収集の足跡です。
戦後の貧しい時期に少年期を過ごしたためか、ラジオを見ると何でも集めたくなります。
集めたラジオは自分で修復します。
還暦を過ぎれば−60歳、ラジオを見ると少年時代に心は移動します。
真空管ラジオ TRラジオ BCLラジオ復元の記録です。
真空管ラジオは半世紀以上の経験があります、修理ノウハウを無償公開しています 。
まず修理法や修理体験記をご覧ください、それでも不明な部分は、ラジオ工房掲示板に実名で書き込んでください(メールは不可)。
なおTRラジオやBCLラジオは定年後始めたものです、難しい質問はご遠慮ください。

白花タンポポ

中津市金谷森の丁で平成13年4月撮影。
子供の頃は蒲公英は白いと思い込んでいたが、
最近はほとんど黄色ばかりです。


九州方言の思い出

福岡市内の大学に入学時 一番驚いたのは言葉の違いでした。

福岡県は隣の県ですから、想像以上で、特に女性の言葉には驚愕。
中津市は福岡県吉冨町に隣接しています、小倉(北九州市)までは同じ方言を使います(日豊方言)。
小倉も中津も昔の豊前の国ですから当然ですが、方言の境界線は福岡市と北九州市の間でしょう、昔の豊前国と筑前国の違いが現在に持ち越されている。

内尾 姓について

内尾は比較的珍しい姓です、全国的には6000番台という資料も見ました。
中津市 宇佐市 上毛町 豊前市近郊に比較的集中しています。
勿論東京にもいます、昔九州から上京してきたのでしょう。
我が家は明治44年に上深水(現中津市三光)から中津市新博多町に出てきたようだ。
昔の豊前の国守護の宇都宮氏系の武士団の末裔といわれています。
なお熊本にも内尾姓がありますが、内尾匡之さんの調査では、
昔中津藩主だった細川家に仕え、熊本転封に同行した方の子孫とのこと。
東京の内尾氏は自分もそうだが九州出身者がほとんどと思われる。
軍師官兵衛に出てくる宇都宮に関係があると思われます。

もともとは現豊前市の内尾に本拠地が有ったことによるらしい。
現在の豊前市の内尾は谷川沿いの小さな集落のようですが、戦国時代以前に山城を構えるには良い位置だったと思われます。
下記画像はgooglの地図と衛星写真です。
有名な大富神社(八屋祇園)から近く 川沿いに山側に約3Km行ったところです、豊前松江駅から数Km程度。
最初 この地にいた人が内尾を名乗り、戦国時代には宇佐 下毛 上毛の地域に勢力圏を拡大したのでしょう。
電話帳を見ても現在 内尾集落には内尾姓はいないようです。
すでに400年前には 豊前各地に勢力を広げていたようです。

ただ我が先祖が上深水にに住んだのは室町時代で 約600年前になる。

なお 我が家は明治44年に 祖父兄弟が 現三光の上深水から中津市新博多町に移住しました。
当時の新博多町は繁華街でした、元々は旧丸吉呉服店の前付近で その後旧旧国道(現中津吉富線108号)
現 福岡銀行中津支店駐車場付近い移転、昭和20年7月までいました、強制疎開で少し 西の京町側に移転しました。
(双方とも 現在は道路拡張により大部分は 道路の敷地に)。

明治39年に内尾の系図の複製を作っ時のメモが残っています。
どうも南北朝の後醍醐天皇の時代に 上深水に住み着いたらしい(2019年6月6日)。
2023年から逆算すると586年前に上深水に住みついた事になります。 
小生は 昭和36年に 大学卒業後 日立製作所に就職  上京しました。
家業は弟が継承しました。
現在も甥がお店を駅近くでやっています。

長らく 先祖の地を 探していたのですが、23年4月23日 訪問してきました。
八面山の近くで 枝垂桜で有名な深泉寺の近くでした、感激しました。



八面山






八面山

小学のころ 現在の福銀中津支店 付近から この山が良く見えました、現在はビルで全く見えません。
当時は強制疎開で 建物が殆ど無かった為でも有ります。
現在でもこの姿を見ると懐かしさを覚えます。
我が先祖の土地 上深水はこの山の麓に有ります。




下記画像は中津城内にあった黒田官兵衛資料館に展示してあった画像です。
叶松城は上毛町友枝に有ったとのこと。
なお文献によれば友枝氏は内尾氏とも名乗ったらしい(友枝文書)。
電話帳には内尾が比較的多い。




2004年5月21日
2014年12月29日
2017年6月13日:叶松城の画像を追加
2017年6月29日: 10 内尾の地図を追加。
2023年1月30日:1,557
2023年4月27日:1,604

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 2017年6月13日からカウント